支え合う社会

車椅子

『生きてるだけで丸儲け』
日本も世界も混沌とした状態の中、この言葉が胸に染みます。

ロックダウン中のインドで四ヶ月間帰国難民になっていたというと、多くの人が「大変な経験をされましたね」と労りの言葉をかけてくださいます。

けれどこのホームページを読んでくださっている方ならお分かりのように、滞在中は恵まれた環境にいて、自由があまりないということ以外ほとんど辛い思いはしていません。

それよりももっともっと辛い目に遭っている人たちが日本にも世界にも数え切れないぐらいおられ、大切なのは、その人たちに救いの手は差し伸べられなくても、労りの思いを持つことだと強く思います。

インドでは出稼ぎ労働者や露天商など最も貧しい層の人たちがコロナ禍によって仕事を失い、日本も派遣切りなどで経済的弱者と呼ばれる人たちが苦しい状況に立たされています。

まるで人間ではなく消耗品を扱うかのような派遣労働というシステムは、いつ日本で生まれたのでしょうか。
同じ職場でほとんど同じ内容の仕事をし、賃金や待遇に大きな格差があるというのは異常です。
そしてその異常さを当たり前のこととて今日も日本社会が動いていることに、アウトローである自分は異常を通り越した異様さを感じています。

当たり前のことが当たり前になる。
大きな転換点を迎えたこれからの人間社会は、弱肉強食、格差を是認した欲望と犠牲の論理の上では成り立っていかないものと信じます。

 

そんな不合理さを何とかしたいと願いかつ行動しつつ、同時に自らは与えられた環境、条件に感謝し、日々『足るを知る』という思いの中、この瞬間を喜びをもって生きていきたいとも願っています。

自分が様々なボランティアに携わっているのは、互いに助け合う社会が理想の社会であり、そういう社会にしていきたいという思いとともに、そこに自分自身の大きな分かち合う喜びと今生かされていることへの感謝の思いを強く持てるようになるからです。

ボランティアの基本は自己犠牲ではなく、Win-Win、互いに喜びを共有できる分かち合いの下にあるのだ、またあるべきだと考えます。

 

人間、ただ漫然と生きているとついつい日常のことが当たり前になり、他人と比べて不平不満が大きくなってくるものです。
けれどよく考えてみると、手脚を自由に使える、水や食べ物が喉を通ってそれが生きるエネルギーへと換わっていく、何の痛みや苦しみを感じず毎日を過すことができる、・・・これらを支える人間の生命維持システムはとてつもなくすごいものです。

そんな当たり前のことを、自分は車椅子の人たちと接することでいつも気付かされています。

人間は互いに気付き合うべき存在であり、そのためにみな個性を持って生まれてきています。
健常者も何かの障害を持つ人もみな対等、そしてその関係を築くために誰かが我慢をするのではなく、互いの役割を認識した上で自然に接することができる、これが理想の社会だと考えています。

ここ広島に車椅子の人たちも気軽に観光に来ていただきたいと願い、広島の観光地を車椅子の人たちと巡るビデオをシリーズで作っています。
これもその思いの一環です。

 

それでも障害を持った方は、健常者には分からない、他人にはなかなか口にすることのできない大きな悩みを抱えておられるのだろうと思います。

その悩みを解決してあげることはできなくても、それを口外することができないという状態はなんとか改善してあげたいと願っています。
悩みを一人で抱え込むほど苦しいことはありません。

 

インド滞在中に、ネット上で若くして脊椎を損傷して車椅子生活になったMacoさんという女性の存在を知りました。
彼女は脚が不自由で車椅子に乗るだけではなく、脊椎損傷によって排泄のコントロールができません。
その彼女が顔を明かした上で排泄処理の方法や性の問題などを具体的にYouTubeで語っています。

Macoさんのことを知ってすぐにYouTubeのチャンネル登録はしたものの、正直言って自分は彼女がアップした動画をひとつひとつすべて見ていくだけの勇気がまだありません。

ただいつかは自分のために彼女の持つ世界も共有できるようになりたいと考えています。

 

人間は誰しも完璧ではありません。
それを自覚し、それを認め合い、尊重し合い、己が理想とする道を歩んでいく、それがこれからの理想の社会を築き上げていくものと信じます。