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感動ポルノ化するマスコミと視聴者

文明、特に現在まで栄華を極めた西洋文明とは自然から遠ざかることであり、現代人の生活環境は人工的な刺激や情報に満ちあふれています。
その結果として知識は豊富になったものの、外部からの刺激を感じる五感の力、感性はどんどんと鈍くなってきています。

日本の街は全国どこに行ってもほとんど同じ風景です。
画一化されたチェーン店の赤や黄色のケバケバしい看板が立ち並び、店の中ではハイテンポなBGMが流れ、ファストフード店の食品などは素材そのものではなく、たっぷりと使われた刺激的な香辛料を味わっているようなものです。

この世はすべてフラクタル(自己相似形)、強い刺激を求める現代人の姿勢はすべての分野に現れていて、マスコミの報道もまた、本来のジャーナリズムとしての役目から大きく外れ、受け手側が真に必要とする情報を伝えることではなく、いかに刺激的で面白い題材を受け手の興味を引くように作り上げられるのか、それが主眼となっています。

 

昨日は滋賀県大津市で幼い園児二人が亡くなり、引率者を含め14名が重体・重軽傷を負うという痛ましい事故がありました。
自分にとって大津は大学を卒業する前後によく訪ねた懐かしいところであり、あのような風光明媚な場所でこのように事故が起こったことに深い悲しみを覚えます。

報道から知るところによると、園児たちを散歩に連れて出て不慮の事故に巻き込んでしまった幼稚園側には何の落ち度もないようです。
けれど不慮の事故とは言え、管理責任のあった幼稚園は事故の顛末を説明すべく夕方には記者会見を開き、その模様が全国に向けて大きく報じられました。

そしてそれを見た誰の心にも深く印象に残ったのが、悲嘆にくれ号泣する園長の姿です。
その上それを追い込むかのように執拗に質問を繰り返す報道陣の姿勢にも大きな批判的反響がありました。
<大津・園児死亡事故 園長会見の放送に批判も…、”お気持ち”を聞く必要性は?>

泣き崩れる園長をわざざ指名し、
「亡くなった園児はどんな子供だったのか」
「園児たちの散歩ルートはどうなっていたのか」
「保育士の配置はどうだったのか」
こういった質問を本来は被害者であり、悲嘆に暮れる幼稚園側にするのはいかがなものでしょう。
これではまるで幼稚園側に非があったと追求しているようなものです。
もしこの質問者がマスコミではなく個人であったなら、決して許されることではないでしょう。

ですからこういった容赦ない非礼とも言える質問を繰り返すマスコミに対し、批判の声が上がるのは当然のこととして理解できます。

けれども本当に悪いのはマスコミであり、その報道姿勢なのでしょうか。
自分は少し違う考え方を持っています。

 

マスコミはNHK以外は民間企業であり、電波媒体は放送法によって最低限のルールを定められている他は、その活動によって利益を追求していくため、受け手側に支持され、興味を引く内容を作っていくことが至上課題です。

現代は刺激充満社会であり、受け手側は深い真理や洞察よりも安易で刺激的な情報を求める傾向があり、送り手側もそれに応え、そういったものを作っていく方向に向かうことは避けられないことです。

あの記者会見の園長がかわいそうとだ、マスコミの質問の仕方が道義に反していると言うならば、その報道を見たり聞いたりしなければいいだけです。

けれど実際はもし夕方の報道番組で、安全管理の専門家が論理的観点から事故の分析をしている番組と、厳しい質問によって泣き崩れる園長の記者会見がアップで映っている番組があったならば、それに批判的意見を持っている人ですら、たぶん大部分は号泣会見の方にチャンネルを合わせるでしょう。
それが現実です。

あの記者会見での記者の姿は、それを求める受け手である視聴者の意識、願望の表れです。
受け手側がよりエキセントリックな絵柄を求めるから、それに応じてマスコミがそういった場面を得られるよう、“泣きの質問”を繰り返すのです。

 

三年前、あの「愛は地球を救う」というテーマを掲げている24時間テレビについて「感動ポルノ」というタイトルの文章を書きました。

障害者は人に感動を与えるための道具ではありません。
けれど人は障害を持つ人に対して“障害に負けずけなげに、そして懸命に生きている”という感動のストーリーを求めたがります。
そして番組をそれを考慮し、「絵になる障害者を探せ!」という号令の元に番組作りをしています。


※ 字幕オンでご覧ください。 または、コチラ

この感動ポルノという刺激を求める番組作りの姿勢は24時間テレビだけではなく、すべてのマスコミにも当てはまることで、それが今回、複数の幼児が不慮の事故で亡くなるという痛ましい事故をキッカケに露呈し、批判とともに話題となったのです。

 

マスコミの報道姿勢は視聴者の欲求の表れです。
ですからそれを批判することは、天に向かってつばを吐いているのと同じことだと考えます。

もし本当にそれを嫌悪し、批判するのであれば、そういった番組を見ることを拒否すればいいだけです。
それを自らが興味を持ってその番組を見て、そのテレビの画面に向かって批判の声を上げ、自らはあたかも善意の第三者であるかのような顔をしているのはお門違いだと思います。

テレビのディスプレイは自らを写す鏡でありガラス窓と考えてみてください。
号泣する園長に向けられているマイク、テレビカメラは、その延長であるあなた自身の耳であり目なのです。

 

具体的な名前を出して申し訳ないですが、この報道にもとても違和感を覚えました。
大津事故会見「みてられない」とつるの剛士 号泣の園長を気遣う声が相次ぐ

ここに出てくる男性芸能人は、
「被害に遭われた保育園の園長先生の記者会見みてられない。悲しみの真っ只中の記者からの質問攻め、見てられない」
とツイートしたとのことですが、ではなぜその会見を見たのか、それがそもそも疑問です。

この芸能人の方はきっと心優しい方なのでしょう、決して個人攻撃するつもりはありませんが、芸能界に長く身を置いた人間であるならば、こんな事故の記者会見の場で、たとえ園が被害者側であったとしても、そこに向けて辛辣な質問が飛ぶであろうことは十分に予測できたはずです。

「見てられない」のであれば見なければいい、ただそれだけです。
そしてこういったものに興味を示さず、見る人がいなくなれば、マスコミもそういった相手に対して無配慮な記者会見はしなくなるでしょう。

ですから自分はテレビを持っていませんし、たぶんこれからも手にすることはないでしょう。

 

また視聴者の要望に応え、こういった報道をせざるえないマスコミもまた、見方を変えれば苦しい立場にあるとも言えます。
このマスコミ社員といわれる方のツイートを読んでみてください。

 

近年はこういった事件、事故の被害者や加害者に対しての人権やプライバシーの問題が大きく取り上げられるようになりました。
ですから報道する側もそういったことに配慮し、自主的に規制したり明確なルールを作ることも必要となってくるのかもしれません。

けれどこれは国民の知る権利、報道の自由といった民主主義の根幹に関わることであり、容易に手を入れることのできない問題です。

ですから最上の解決策とは、受け手側が高い倫理観を持ち、興味本位の報道を求めるのではなく、真のジャーナリズムを貫く機関を支持し、育てていくことです。

 

厳しいようですが、批判を口にしながらも、号泣する園長の映る画面を食い入るように見つめている人は、辛辣な質問を繰り返す報道陣と同列であるということを自覚してください。

けれどそれは決して羞じるべき事ではないと思います。
個人としては向けられない興味本位な思いも、それが何万という数になって集まれば強力なエネルギーとなり、それを受け、大多数の思いを代表する形で報道陣が園長に対して辛辣な質問を向けたのです。

まずはその己の心の中にある真の姿を知ること、ここから一歩が始まります。

 

最後にもうひとつ気になったことがあります。
それは事故現場のグーグル・ストリートビューの画像に、事故に遭った幼稚園の園児たちと思われる姿が、まさにその事故現場その場所で映り込んでいることです。

大津市 事故現場

これは今回のこの痛ましい事故が、社会を大きく変えるキッカケとなる力を持っているということを示唆しているように感じます。

それは交通安全のことなのか、マスコミの報道姿勢、あるいは視聴者のあり方なのか、今は分かりませんが、この事故を風化さすことなく何か大きな学びを得ることが、犠牲になられた方への哀悼の意になるものと信じます。