今を生きる

アドラーの目的論

少し前、志を共有する古くからの友人から、最近読んだ『「原因」と「結果」の法則』にとても感動したので、もし未読ならプレゼントしたいというメールをいただきました。

この本はスピリチュアルな世界ではとても有名な本なのでその存在は知っていましたが、類書はたくさん目を通したことがあるものの、これはまだ読んだことがありませんでした。
なのでこれを機会に一読しようと思い、街の書店で手に取りました。

薄い本なのであっという間に読めてしまいました。
けれど読んだ感想は、自分にはあまりしっくりとこないというのが正直な感想です。

この本を名著だとする人も多いようですが、自分にとって全編を貫くキリスト教的倫理観のようなものが堅苦しくてどうも受け入れられません。
また表現も抽象的なのが多いのも心に響かない要因です。

けれどそれを普遍的真理の表現と捉える人もいるでしょう。
人それぞれ感じ方は様々です。

 

さらに最も大切なのは、現在生じている“結果”を過去の“原因”に求めるというその考え方、これをどう受け止めるかということです。

因果応報、因縁、カルマ、一粒万倍というのがその「原因と結果の法則」で、これは立派な宇宙の律法だと感じます。
ただこれが正しいかどうかではなく、その考え方、あるいは捉え方と言った方がいいかもしれませんが、そういう捉え方をするのが真に望ましいのかどうか、これが問題です。

 

真理はひとつです。
けれどその捉え方は様々あり、その望ましい捉え方は人によって異なるでしょうし、またそれは時代の流れに大きく影響を受けることも事実です。

今は西洋から東洋へと大きく時代と価値観が転換していく時です。
ですから世界を牽引し、主流となる真理の捉え方もまた換っていくのが道理です。

 

時間は過去から現在を通って未来へと流れ、水面に石を投げると波紋が広がり、地中に種を蒔くからそこから芽が出ます。
これは誰しもが感じ取ることのできる自然の流れです。

過去の原因から現在の結果が生まれる、これに間違いはありません。
けれど大切なのは、過去の原因そのものではく、それをどのように捉え、どう現在の結果へ導くかということです。

幼い頃に不遇な環境で暮らし、その結果悲惨な人生を送った人がいるとします。
けれどまったく同じような環境で幼少期を過したらみな同じような大人になるかというとそうではありません。
中にはその逆境をバネとし、大きな成功を勝ち取る人もいるはずです。

 

花は茎をハサミで切ると枯れてしまいます。
水と日差しを与えると成長し、花を開かせます。

自然の環境に対する反応は一様ですが、自由意志を持つ人間は違います。
人間は考え方、捉え方をあらため、未来を創造する力を持っています。

その力を使い、どんな過去の原因を持っているかより、今現在の自分がその過去をどのように捉え、未来をどう創造し、そのために過去をどう利用していくのかがより大切でると感じます。

これが通常とは逆の考え方で、時間は未来から過去に向かって流れるというものです。
これは過去の事象をその形ではなく、主観的な意味により重点を置くものです。

つまり過去に何があったかではなく、それをどう捉え、未来に向かってどう活かすのか、その未来志向の考え方が、過去の事象は変えられなくてもより大切なその過去の持つ意味を変えることができます。

 

過去の経験、心の傷であるトラウマが現在の心の状態を作るという原因論のフロイト、ユングの考え方に対し、アドラーはそのトラウマの存在を明確に否定し、未来を創造する目的で過去を利用するという目的論に立っています。

このフロイト、ユング、アドラーは世界の心理学三代巨匠と呼ばれていて、日本では近年までアドラーのみほぼ無名の存在でしたが、最近はアドラーが最も脚光を浴びるようになり、これは時代全体がより未来志向、目的指向に向かって推移しているためだろうと考えています。

アドラーの目的論

 

この「原因と結果の法則」以外にも、ひとつのことでまったく逆の見方が存在するというのはよくあることです。

未来に関係することでいえば、明るい未来を導くには、その未来に向かっての具体的目標が必要だとよく言われ、自己啓発や成功哲学の本には必ずと言っていいほどこの目標のことが述べられています。

その目標は具体的なものがよく、そこに至る道筋も明確であることが望ましい、これは一般的に言われていることですが、これとはまったく異なる考え方もあり、脳機能学者の苫米地英人は、「ゴールは現状の外側に作れ」と真逆のことを説いています。

苫米地英人

さらにメンタリストDaiGoに至っては、目標設定不要とまで動画の中で言い切っています。

 

なぜ生き方、考え方の根本の部分でこんなにも真逆のものがあり、それが幅広く受け入れられているのか、そのことを考えてみました。

そして得た結論はひとつです。
たびたび宗教論で言われることと同じで、すべては山登りのようなものであり、目指す頂はひとつでも、そこに至る道筋が異なるのだということです。

ではその目指す頂はと言うと、それはいかに“今を生きるか”、これに集約されています。

 

過去の囚われからどのように脱却して今を生きるのか、明るい未来を導くため、今この瞬間、過去を踏み台にしてどう生きるのか。

目標設定は、今というこの時に余分なことに意識を向けず、本当に大切なものに焦点を絞って前に進むための大切な手段です。
今を懸命に生きること、その懸命さが方向違いにならないようにするための羅針盤の役割を目標が果たします。

ですからその懸命さと方向を見失わずに日々生きられるのなら、あえて固定化した目標はない方がいいというのも一理あります。

すべては『今を生きる』ための方法論、そこに至る何本かの異なるルートです。

 

今を生きる、これは簡単なようでいて究極のものであり、これは頭で考えてすぐに実行できるというものではありません。
もしこれが本当にできたなら、過去を悔やみ、未来を憂うことはなくなり、誰しもがそうなれることを望んでいます。

その方法論のひとつのアドラーですが、アドラーは、アドラーの考え方を真に受け入れられるようになるためには、それを知るまでの年月の半分の時が必要だと述べています。
つまり四十歳でアドラーを知ってそれを志したなら、それを身に付けるにはその後二十年間は必要だという考えです。

 

自分も今を生きるということをずっと頭の中には置いていましたが、ここ最近特に強く感じるようになり、ほんの少しずつ実践できてきたように感じます。

それは人生おいて幾多の苦しみを感じ、そこから逃れたいと思い続けた結果、苦しみの源泉である過去や未来に対する恐怖に目を向けていては問題解決にならない、今目の前のことに意識を向けることが唯一の解決策であると、頭ではなく体で感じるようになってきたからです。

ではなぜそうなれたのか、何かひとつ決定的要因があるわけではありませんが、ひとつは時を重ねたこと、そしてもうひとつは、やはりこの7月から食べ物をしっかりと咀嚼する習慣を身に付けたことが大きいと感じます。

これは理屈ではなく実践すれば分かります。
しっかりと咀嚼するということは、今この時をしっかり味わうことであり、今を感じ取る実践行です。

 

その実践行の究極は、永平寺で修行する雲水たちの日々の生活でしょう。
今日はその動画を久し振りに観ました。

これを観て気がついたことがあります。
生活全般、作務ひとつひとつに全神経を集中し、その瞬間、瞬間を真剣に生きる、その徹底し尽くした今を生きる姿勢、そしてそれを行うために定められた作法、その作法は洗顔の水であったり食事であったり、今その時目の前にあるモノによって律せられ、そのモノを介して今という時の生き方を学びます。

今この時に意識を集中して懸命に生きる、時を一瞬も無駄にせず大切に過すということ、このことと、目の前にある水、食事、それらのモノを大切に扱い、一切の無駄がないようにするということはまったく同じなのだということをこの動画を観て知りました。

今を真剣に生きていれば、身の回りのモノすべてを大切に扱おうとするはずです。
そしてモノを極限まで活かそうとすると、その瞬間は、モノと真剣に対峙した集中した時となります。

目には見えない心と形ある身体が表裏の関係でひとつであるように、形のない時と形あるモノ、それらも互いに深く関わり合う切っても切れない関係です。

この極めて厳しい環境の中で行を行う雲水たちにとって、あるのはただ一瞬一瞬どう生きるのか、この瞬間の真剣勝負の連続です。
たぶん彼らの頭の中には過去も未来も考える余裕はないはずです。
あるのは今この時だけ、その今という瞬間の連続によって時間というものが形作られます。

そしてそれと同時に、未来への目標も今この瞬間に向ける意識によって消し飛んでしまうことでしょう。

只管打坐、ただ黙して座ること、それはただ今というこの瞬間を観じ取ることなのでしょう。

 

ここに書いた「今を生きる」というテーマは、数日前から書こうと考えていたことです。
そのこと頭の隅に置きながら今日の午後訪れた先で、そこの方が素晴らしい言葉があるからと、佐藤初女さんの本の一節を紹介してくださいました。

佐藤初女さんは、心のこもったおにぎりを作られると「地球交響曲第二番」で紹介された方です。

今日はこの佐藤初女さんの言葉を噛みしめました。

野菜を「ゆがく」とき、透き通るいのちの瞬間があります

私は、ほうれん草やブロッコリーなどの野菜をゆがくとき、火にかけた鍋から一瞬たりとも目を離しません。それまで大地に根を張って生きていた緑の野菜は、たっぷりとしたお湯でゆがくことで、よりいっそう鮮やかな美しい緑色になる瞬間があります。そのとき茎を見ると、透き通っています。
この瞬間に火を止めて、冷たい水にとって食べるのがいちばんおいしいと思います。このタイミングでお湯から引き揚げた野菜は、しゃきしゃきとして甘く、香りもよいのです。
野菜をゆがいている間に、別の作業をする人も多いようですが、そうすると透明になる瞬間を見過ごしてしまいます。そうなると、「ゆがく」ではなく「ゆでる」になってしまいます。野菜をゆでてしまうと、鮮やかな色は失われ、歯ごたえも柔らかくなり過ぎて美味しくありません。
最近は野菜を「ゆでる」と言う人が多いようですが、「ゆがく」と「ゆでる」では、やっぱり違う気がします。そして、多くの野菜は「ゆがく」のが絶対においしいのです。
野菜が透明になる瞬間は、野菜のいのちが食べ物となって、私たちのいのちと一つになって生まれ変わる瞬間、いのちの移し替えのときだと思います。
いのちの移し替えのときは、何もかも透き通っています。蝉(せみ)や蛙が脱皮するときも、蚕がさなぎに変わるときもそうです。
人間の母乳も透き通っているほうがいいのだと助産師さんに教わったことがあります。お母さんの乳房を通していのちが赤ちゃんに与えられる、まさにいのちの移し替えだと思います。