刻む思い

鉄筆の聖者 徳永康起 先生

アウトプットはアウトプットを導きます。
何かを思い立って書き始めると、それに伴って別のアイデアが浮んでくるということがよくあります。
なんだか鮎の友釣りのような感じです。

鮎と言えば、『百合の花が咲くところでは鮎が釣れない』という諺をご存じですか。
百合はとてもいい香りを漂わせます。
そしてその香りには心を優しくする働きがあるそうです。

鮎というのはとても闘争心の強い魚で、自分の縄張りに入ってきた鮎には敵対心を持ってそれを追い出そうとするそうです。
けれど渓流沿いに百合の花が咲いているところでは、百合の香の効果で鮎の闘争心が抑えられ、友釣りの鮎を入れても鮎が釣れないそうです。

これはとてもいい話なので、百合を生けておられるお家ではこの話をするようにしています。

 

昨日「心を刻む」を書き、後になって、ハガキには効用を持つ大きな要因がもうひとつあるということに気がつきました。
それは基本的にハガキは書き直しができず、ペンを持って一気に書き上げるものだということです。

もちろん書き損じれば書き直すこともあり、修正ペンで誤字を修正することもありますが、通常は最初の文字を書き始めれば、その流れで最後まで一気に書いてしまいます。
その間メールやSNSの書き込みのように、文字の修正、追加、順序の入れ替えなどはできません。

この一気に書くということによって、書く時に抱いている思い、意気込みが文面にこもります。
一発だけの真剣勝負、一期一会、その少しの緊張感を持って対峙する思いが相手に響き、自らの胸にも伝わります。

 

これは音楽でも同じです。
CDが普及する前は音楽はテープやレコードで聴いていました。
レコードはCDとは違って消耗品です。
盤面に針を落としてレコードをかけるたび、確実に盤面は摩耗して劣化します。
ですから聴く方もそれを感じ、一回一回の再生を心して聴いたものです。

そのレコードを作る時も昔はマルチトラックレコーダーという便利なものはなく、歌も伴奏も一発で上手く演奏することを求められ、その緊張感と臨場感が音から伝わってきました。

こういった一期一会の素晴らしさを感じ取れるものは、他にもたくさんあると思います。

 

普段使うボールペンは三種類、メモやノート、記録用は青色で0.38ミリとかなり細いものです。
ハガキには黒色を使い、文字をあまり多く書かない時は0.5ミリ、細かい字を書く必要がある時には0.38ミリのものを使っています。
これらはここ数年の定番です。

uni-ball Signo DX

愛用のボールペンを使ってハガキを書くのは楽しいものです。
昨日はベートーヴェンのコンサートチケットをくださった知り合いにお礼のハガキを書きました。

ハガキを書き始める時の気分は、画家が最初にキャンパスに向かう時の気持ちと同じだと思います。
小学生の頃、月初めに破り取った前月のカレンターをもらい、その裏に絵を描くのを楽しみにしていて、その時のことも思い出します。

ハガキに何を書くかは最初は決まっていません。
書き始めてから思いついた言葉を次々としたためていく、これはひとつの旅のようなもので、いわゆる行き当たりばったり、“行き当たりばっ旅”とも言いますね。

書いていて、次々と湧き出る思いを感じるのは快感です。
まるで車でドライブをしているようで、そしてその終点はハガキの端っこと決まっているのでそれに合わせ、思いと文字を調整するのも楽しいものです。

しっかりと書けたハガキは自分にとってひとつの作品のようで、あらためて手に取って嬉しく感じる時があります。
そしてそれを投函し、後日相手の元に届いて読んでもらっているのを想像するのもまた喜びで、この喜びに時間差があるのがハガキの持つ豊かさだと感じます。

「ありがとう」感謝の言葉を誰かに目の前で言われると嬉しいものです。
それは電話、メールも同様です。
けれど最も深く心に響くのは、手書きのメッセージが少し経った後、手紙やハガキとして届いた時です。

今は電子デバイス全盛で、手書きのメッセージを送る機会は以前よりも減ってきました。
だからこそ、わざわざ手書きをするハガキや手紙の価値は高まっています。

 

先に、文字を心に刻み込むためには、ペン先が少し紙面にのめり込むような感触が必要だと書きました。
その感触が最も強いのが、昔懐かしいガリ版刷りの鉄筆です。

自分はもうすぐ還暦を迎えますが、小学生の頃は学校にガリ版刷りをするための謄写版がありました。
その後中学校以降では見たことがなく、若い人はきっと名前すら聞いたことかせないかもしれませんね。
ネットではいろいろ画像が出ています。

ガリ版刷り
<【発明の聖地】東近江市のガリ版伝承館でガリ版の魅力を再発見! | ナガジン>

このガリ版刷りの謄写版、鉄筆を使って素晴らしい学級通信を毎月発行し、数多くのハガキを書き、たくさんの子どもたちの心に灯りを灯した徳永康起先生は、その偉業を讃え「鉄筆の聖者」と呼ばれています。

鉄筆の聖者 徳永康起 先生

ハガキ道の提唱者坂田道信先生は、その志の原点のひとつが徳永康起先生であるからということから、坂田先生と懇意にさせていただいていた平成の初め頃は、講演のたびごとに必ず徳永康起先生の話をされ、そのお話が本当に素晴らしいお話なので、同じ内容であるにも関わらず聴くたびに感動し、時には涙していました。

徳永康起先生 徳永康起先生

自分記憶の中に、坂田先生の話された徳永康起先生の生き方が強く染み込んでいて、「刻む」という言葉を聞くと、徳永康起先生と鉄筆のことが必ず思い起こされます。

 

刻むというのは、ひとつは後戻りできない決意を記すということかもしれません。

徳永先生の師匠のような存在であった森信三先生のお言葉、『一日は一生の縮図である』
一日一日を心して刻んでいきます。