今世界は「第三次世界大戦」の最中なのだと思います。
ネットのニュースは心が沈むものばかり、この閉塞感がいつ収束するのか、まったく予測がつきません。
ここインドのニュースも同様で、今朝新聞を見ていたスレッシュに何かいい記事はないのかと尋ねても、顔をしかめるばかりです。
(インドでは、首を横に振るのはイエスのサインです)
こんな状況でも、またこんな状況だからこそ、人は必死で新たな情報に救いを求めますが、先日も書いたように、こんな時ほど悲観的情報があふれ、それを目にした人はさらに悲観的になるという悪循環に陥ります。
悪い表現ですが、日本には昔から『下手の考え休むに似たり』という諺があり、悪循環もそのひとつでしょう。
この悪循環に陥っている時、自分では必死に深く考えているつもりでも、意外と堂々巡りをしてしまい、何かふとしたキッカケで、あるいはその状況から離れたり、考えるのを止めた時に思いがけないアイデアが浮かぶことがあります。
たくさんの情報を入れるということは、視野を広げると同時にその根本を見えにくくします。
人間の持つ情報処理能力には限界があり、それが超えそうになった場合、その情報のいくつかを捨て去り、ひとつのパターンとして認識しようとします。
いわゆるパターン認識というものです。
初めて訪れた外国の街の景色は新鮮で、そのすべてを見つめ、受け入れようとしますが、普段見慣れている通勤、通学の景色は自分にとってひとつのパターンであり、そのすべてを見ているようで、実際はそのほとんどを頭の中で通過させてしまいます。
今は人類全体に新たな生き方が求められている時です。
その生き方の根本には思い、考え方、感じ方があり、それをこれまでのパターンから離れ、より新鮮に受け入れていかなければなりません。
そんなことを感じさせるいくつかのことを書いてみます。
十輝くん同様懇意にしているミュージシャンのマサくん(奥野勝利さん)は、子供の頃はシンガポールで育ち、その後アメリカで作曲を学び、今は広島県の田舎で暮らしながら深く日本を愛し、日本を、日本で生まれ育った日本人とは違う視点で見つめています。
マサくんの歌う日本の童謡にはいつも涙します。
マサくんは一昨年胃ガンを患い、長い闘病生活を経て歌により深みが加わりました。
『艱難汝を玉にす』、今もまだ完調ではないマサくんが、これからも歌を通して多くの人に愛を伝えていってくれることを願います。
マサくんのfacebookの言葉には、いつも意外と気付かないことがサラリと書かれていて、自分がいつも“当たり前”というフィルターを通して物事を見ていることがよく分かります。
日本人にとって「公務員は日曜日は休み」というのは頭に深く染み込んだ常識です。
けれどこの非常時、明日の雇用も不安な民間人が休日返上で働き、食いっぱぐれる心配のない公務員が平時と同じくゆったりと休日を過ごすというのは確かにおかしいです。
やはり日本にだけいると日本のことが分からなくなります。
「常識」という思い込み、洗脳から一度抜け出る必要があります。
今は世界的にマスク不足が大きな課題です。
そのマスクが不足する原因のひとつとして、マスク不足に大きな不安を抱く人たち、特に一部のお年寄りがマスクを買い占めているという現実があります。
そのマスク不足解消のため、これはいいと思える記事を見かけました。
<朝から並べる暇人だけがマスクを安く買えるのはおかしい – Yahoo!ニュース>
ここで述べられている
転売を「不正」と考えるなら、小売り価格を値上げしたうえで、値上げによって生じた利益は税で回収して、「愚か者への税金」にすればいいでしょう。これで買い占めは止まるし、転売業者も消滅します。これがウォルター・ブロックが『不道徳な経済学』で展開する論理で、転売が「不道徳」になるのは市場を規制するからです。
この考え方に納得です。
例えばマスクの正規価格が50円だとすると、それに税金を50円加えて100円にすれば、不要な備蓄をしようとする人の足は遠のきます。
またその程度なら、生活苦でマスクを手に入れられないということもありません。
そしてその税金の50円を武漢肺炎対策に回せばすべて解決です。
実際にそれを運用するには何か課題があるかもしれませんが、こういう発想が柔軟にできるのは素晴らしいことです。
「今絶対に必要なマスクは少しでも安く、求めている全員に行き渡らなければならない」
この強固な考え(思い込み)が、柔軟な発想を阻害します。
どんな問いにも必ず答えがあるわけではありません。
またあったとしても、それを言葉という論理で表現できるかどうかは別問題です。
そして生きる上で本当に大切な問いとは、そういったものではないでしょうか。
昨日あいみょんのことを書きました。
とても有名なミュージシャンのようで、それを今まで知らなかったというのは少し恥ずかしい気がしますが、一昨日彼女の歌を初めて聴いて衝撃を受け、何がこれほどまでに聴く者の心を引き寄せるのか、その力の源は何かを真剣に考えました。
そのあいみょん、あの文章は自己採点するとせいぜい三十点ぐらいでしょう。
それぐらい感じたことを論理にし、言葉で表現するのに難しさを感じました。
そしてそれに思いを巡らせながら感じたのは、今こうして思っていること、それ自体が大きな学びだということです。
同じ音楽業界でも、大々的プロモーション活動を行うAKBや電通案件は、そのヒット要因を論理で説明するのはそう難しいことではありません。
けれどあいみょんの場合、過去の流行のパターンやマーケティングからそれを分析することは困難です。
人間としてより根源的な、そんな部分に訴えかけるものであり、だからこそそこに思いを馳せることが深い学びになると感じたのです。
あいみょんの「生きていたんだよな」を聴き、同じく自殺という言葉が出てくる井上陽水の「傘がない」を思い出しました。
この論理を超越した歌詞の凄さ、これを言葉で表現できるでしょうか。
井上陽水はこの曲を収めたアルバム「断絶」のヒットによってメジャーな存在になっていきますが、この歌詞だけを事前に見てもその凄さを感じ取ることは不可能でしょう。
表現できない、不可能だけども人の心に訴える、そこに生きることの奥深さを感じます。
そんな感じ方や思い方、それはそう簡単に変えられるものではなく、だからこそ今のような状況の中で自分を見つめ直すことに価値があります。
今回でインドに来たのは11回目、その中で最も長期間いたのが、やはり六年前百日間駐在したコスモニケタンです。
コスモニケタンでは、学校施設以外周りに何もない平原で子どもたちと暮らし、日本とはまったく異なる日常を過ごしました。
その思いを持ったまま日本に戻り、久しぶりに講演会のようなものに参加した時の違和感、それはとても強烈なものでした。
コンクリートで囲まれ、空調の効いた狭い四角い部屋に座り、決められた時間講師のパッケージ化された話を聴き、それでそれを疑似体験したかのような気分になる。
参加者はみなそれを当たり前のこととして受け止めますが、それはインドの貧しい村で学ぶ子どもたちの環境とは大きく異なります。
これはどちらがいいと言える問題ではありませんが、ただインドで体験したことの方が学ぶ姿勢としてより自然であり、そのことに気づかず何かを学んだつもりになっているのは、長い目で見て最も大切なものから遠ざかっていくものではないかと強く感じました。
けれどその違和感もそう長くは続かず、今はその日本の日常スタイルを“当たり前のこと”として受け止めている自分がいて、時折それに気づき、足元の危うさを感じるのです。
当たり前の日常が壊れた今、その当たり前とは何が、それを今一度見つめ直してみましょう。
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