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幸福のバランス

幸福のバランス

主観的豊かさの続きです。

この時空にあるものはすべて共生関係で成り立っていて、周りとの関係を絶ち永遠に独立を保つものは何ひとつありません。

そしてその共生関係は多層的、フラクタルであり、モビールと同じような構造をしています。

モビール

男と女は二つでひとつの共生関係であり、このバランスを保っているからこそ人類は長く地上で生きながらえることができました。
同様にもうひとつ上の階層は、人間と他の動物との共生関係であり、そのさらに上は動物と植物というように、共生関係のフラクタルはミクロからマクロまで、まるでマトリョーシカのように連綿と続いています。

マトリョーシカ

 

コンピューターが生活の中で身近なものとなってから、ハードとソフトという言葉は誰しもが知るものとなりました。

ハードはモノ、機械、そしてソフトとはそれを活用する技術です。
この二つは明かな共生関係であり、このどちらが欠けてもその価値が失われてしまうことは容易に理解できると思います。

ではこの二つの共生関係が保たれていればすべていいかというとそうではありません。
共生関係は多層的であり、このハードとソフトを活かすための技術、知恵もまた必要です。

 

もう三十年以上前、「IBMの人事管理」というビジネス書を読みました。

この本の中で“ヒューマンウエア”という概念が紹介されていて、それはコンピューターというハードウエアとそれを動かすプログラムというソフトウエア、この二つだけを求めるのではなく、その稼働するコンピューターをいかに人間社会に役立て人々の幸福に寄与するのか、そのハード、ソフトよりもひとつ上の概念であるヒューマンウエアこそが大切であると述べられていました。

たぶんこれは日本IBMだけではなく、全世界のIBM共通の考えだと思います。
そしてこれはこれからの時代、決して忘れてはならない極めて重要なものだとその時に感じ、強烈に頭に残りました。

けれど残念ながらそれから三十数年、ファミコンなどの普及もあり、ハード、ソフトという言葉は世間に深く浸透したにも関わらず、このヒューマンウエアやそれに類する概念についての話題をほとんど耳にすることはありませんでした。

それはあたかもハードとソフト、この二つが発展し、生活がより便利で快適であればすべてが満たされると多くの人が信じているかのようです。

実際に企業や社会全体は、人間にそう信じさせることによって利益を追求し発展しているという面は否定できません。
これがいわゆるひとつの生命を持つ『資本の意志』と言えるでしょう。

 

このことは非常に重要かつシビアな問題であり、安易にこのことについて論じることはできませんが、限られた自分の能力と時間の中で、あえて独断的に感じたことを述べさせていただきます。

パソコン機器とプログラムのような最も身近なところにあるハードとソフト、この二つのみを追い求め、より多層的な関係を除外し、
「これが本当に人間の幸せに役立つのか?」
という、モノとの関わりの中で常に持ち続けなければならない根源的問いを放棄してしまうと、そこに歪みが生じるのは必然です。

車の燃費は年々向上して馬力もアップし、コンピューターの処理速度や記憶容量は近年飛躍的に増大してきました。
こういった技術の進歩はすべての分野で見られることであり、この『資本の意志』はラチェットのように進む一方で後戻りすることはありません。

けれど近年はその進歩を示す数値のみが向上し、それが実際により高品質なものになってはいないものが少なからずあるように感じます。

自分の好きな音楽、オーディオの分野でも、1982年にCDが発売され、デジタルオーディオ全盛となり、ステレオの音質は一気に向上すると予測されていましたが、その後デジタル技術は数値的に大きく飛躍を遂げたものの、今マニアの間ではアナログの方が音がよかったというのが通説となっています。

また今は好きな音楽をいつでもどこでも気軽に聴け、自分でレコーディングすることも簡単にできる素晴らしい環境ですが、本当に人の心を打つ名曲、名演は、昭和の時代の方が多かったと感じている人が多くいます。

建築も同じです。
新建材を多用した今の家は昔の家よりも耐用年数が短いとされています。
日本最古の建造物である奈良の法隆寺は、飛鳥時代に建てられたにも関わらず風雪に耐え、今もその威影を誇り、現代の宮大工で同様のものを作るのは不可能とのことです。

数値の裏に隠された技術、また数値化できない職人芸の世界で、技術の質的空洞化が起こっています。

もちろん通信、交通の手段等本質的技術発展したものも数多くありますが、それらも含め、物質的豊かさが人間の持つ幸福感向上に必ずしも直結しないということに多くの人が気付いても、これも後戻りできないラチェットであり、そこからの抜け道を現代人は模索しているような状態です。

これがごく身近な限られた範囲、関係しか見ないという、視野、思考の狭窄化が招いたものだと感じます。

 

これも大胆に述べるならば、前項の数億円のスーパーカーは技術革新のひとつの象徴であり、極です。
そしてそれと対極となり、共生関係を持つべきものは、今与えられているものに感謝し、『足るを知る』ということです。

この二つのバランスを保つこと、これは時空の絶対法則であり、これを崩した中に人間の幸福はあり得ないものと信じます。

 

技術の進歩は『資本の意志』であり、この歩みは絶対に止めることはできません。
ですからその社会に暮らす人間は、その技術の進歩の果実を享受するために、心の中にその対極である『足るを知る』精神を培っていく努力をする必要があります。

そしてその前提条件として、『資本の意志』は人間に不全感を抱かせ欲望をかき立てるという『足るを知る』心を阻害させる“毒”を持っているということを知るべきです。
そしてそれを知ることが人間の持つ知恵です。

幸福のバランス

 

社会の現状を見て分かるように、地球上には人間の持つ飽くなき欲望が渦巻き、いつまで経っても満たされることのない『足るを知らない』人間であふれ、このままでいくとこの流れは地球環境が完全に破壊され尽くし、人類が滅亡するまで止まるところを知らないでしょう。

大切なのは共生関係、バランスです。
新たな技術を否定するわけではありません。
ただそれを本当の意味で人間の幸せにつなげるために、今この瞬間、この喜びを感じ、満たされた思いを持つことが何より大切です。

自分はインドの貧しい子どもたちと接する中でそのことを学びました。
そしてそこで感じたことが今の社会のバランスを取るために極めて重要であると感じ、こうして発信しています。

もっと簡単に言うと、ご馳走を美味しく食べたかったら空腹になること、空腹を我慢して汗を流して運動することです。
運動もせずにご馳走ばかりをたらふく食べていると、その美味しさを十分味わえないばかりかメタボになり、病気になって早死にしてしまいます。

 

文明は大きな恵みをもたらす反面、麻薬であり刃物のような側面を持っています。
今は石や斧で殴り合いをしていた太古の時代とは異なります。
指先ひとつでスイッチを押せば、何億という数の人間の命を奪う技術すら持っているのですから、それを制御する技術、また技術と対極の知恵が、肥大化した技術と同程度に求められるのは当然のことです。

幸福とは技術というひとつの極、あるいはひとつの層の中のバランスにあるのではなく、広い目で物事を見つめ、ひとつの方に偏りがある場合、その対極の求めることによって湧き出てくるものであると感じます。

 

これからの時代、人類はどうなっていくのでしょう。
自分が描く理想の未来は、フリーエネルギーが開発され、エネルギー、医療、食料といった人間が生きていくために欠かせないものが、ほぼ無料、無尽蔵に手に入り、犯罪や戦争のない持続可能な社会です。

これは決して実現不可能なものではなく、近い将来十分実現することのできるものと信じ、また今の巨大な時代の転換期を乗り越えるとは、この理想を実現させることであり、もしこれができなければ、人類の未来は非常に危機的なものになると考えざる得ません。

この大転換期の先は二つにひとつ、理想社会の実現か壊滅でしょう、この中間はないものと考えます。

そのために今何を最もするべきか、それが将来の素晴らしい恵みを享受するため、今与えられているもの、それに感謝し『足るを知る』ことだと信じます。