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林原家

今から三十年以上前の昭和の時代、何かの雑誌に目に優しい卓上ライトがあるという広告が載っていました。
電球は普通の40Wの白熱灯を使用し、それを特殊な回路で昇圧し、100W相当の朝日と同じ性質の眼の健康に役立つ光に変換する画期的な商品とのことです。

理屈はよく分かりませんが販売元が信頼できる旺文社で、価格が約三万円と高価だったのですが、新しい物好きの好奇心を刺激され、購入してしまいました。
名前はバイオライト、その最初期型のモデルで、ネットで検索すると画像がありました。
この白色バージョンです。

このバイオライトを発明したのが当時林原生物科学研究所に籍を置き、かなりぶっ飛んだ発明品を数多く生み出した政木和三先生です。
<政木和三 – Wikipedia>

政木先生の生き方や発想はまさに破天荒で、そのペースとなるものは超科学的なものです。
当時はまたスピリチュアルという言葉は定着しておらず、政木先生の活動するフィールドは、精神世界とかニューサイエンスといった言葉で語られていました。
政木先生のすごさはその発明品の数だけではなく、そのほとんどの特許権を手放し、社会に貢献したいという無私の姿勢にあります。

YouTubeで見ると政木先生の講演動画が何本もアップされています。

 

バイオライトを購入した当初は政木先生の名前はまったく知らず、それが政木先生の発明品であるということも当然知る術もありませんでした。

けれどその数年後、たまたま転勤で岡山に赴任することになり、その職場が林原の本社と細い道を隔てた向い側のビルで、職場の窓から林原の本社や政木氏の研究室が目に入るというところでした。

それが今からちょうど三十年前の平成元年です。
その頃から政木先生の名前は精神世界に関心を持つ人たちの間で知られるようになり、本や雑誌でもたびたび紹介されどんどん有名になっていかれました。

政木先生のぶっ飛んだ存在感もすごいですが、その政木先生を研究員として在籍させている林原という会社もまたすごいものです。

岡山には平成元年からちょうど一年間住んでいて、その間縁あって林原の会社見学を二回させていただきました。
林原はその社名こそあまり知られていないものの、会社の持つ基礎研究力は卓越したもので、林原で研究開発したものを他社で商品化するというスタイルが主であるがゆえ、一般にはあまり馴染みがないのです。

林原の研究施設はとても立派なものでした。
そして林原は岡山市内の広大な一等地を含む優良不動産を全国に所有し、潤沢な資金力を元に「研究費に予算はつけない」、つまり研究には青天井でいくらでもお金を使うことができるのだと聞き、とても驚きました。
これは資金力とともに、林原がオーナー社長の会社だからこそできることです。

 

政木先生のエピソードをいくつか。

政木先生フーチーパターンという振り子を使い、人の魂のあり様をはじめ様々なことを鑑定されていました。
植物さんの三上晃先生も同じフィールドの方同士ということで、ご夫婦で岡山まで政木先生に会いに行かれ、いろいろお話しして意気投合されたようで、三上先生ご夫妻の前世を診られ、深いご縁というものを納得されたようでした。

政木先生は楽器を習ったことはまったくありませんが、前世の記憶を持っておれ、前世に演奏していたという曲だけはピアノで流ちょうに弾かれていました。

政木先生はゴルフのまったく新しい打法を編み出され、72歳から三回もエイジシュート(年齢以下のスコアでラウンドする)を達成されました。

以前自分は岡山の産婦人科病院の顧問をしていて、その病院で政木先生のお孫さんがお生まれになられました。
その病院の院長曰く、
「ある日突然院長室に政木先生がやって来られ、まったく何も話さないうちから突然自分が抱えている悩みの解決法を話されたので驚きました」
とのことでした。

その院長の紹介で、大阪から定期的に来られるヒーラーの方に施術をしたもらったことがあります。
大きな部屋に全員で横になり、その間をヒーラーの先生が移動して寝ている人の頭を両手で軽く掴んでエネルギーを入れてくださいます。
すると紫色の渦とかいろんなビジョンが見えるのです。
政木先生のご家族も、そのヒーラーの施術を受けておられるとのことでした。

平成二年、広島に来てから一度政木先生をお呼びして講演会を企画したことがあります。
どんな話をされたのか今はもう記憶がありませんが、とにかく精力的でいつまでも一人で話し続けられる方だという印象があります。
そのエネルギッシュなひたむきさが発明の原動力なのでしょう。

 

時は少しずつ確実に流れていきます。
あの元気いっぱいだった政木先生も今から17年前の平成14年に亡くなられました。
そしてあの盤石な資金的基盤を持つと思われていた林原が平成23年に会社更生法の適応を受け、カリスマ社長との呼び声高かった創業家四代目社長の林原健氏が私財を処分した上で辞任するということになりました。

これには当時本当に驚きました。
そしてその後会社が傾くまでの顛末が書かれた本が出版され、その時は手に取らなかったのですが、一昨日ブックオフで見つけ、昨日最後まで読みました。

政木先生によると、先生の過去世は岡山を治めていた池田藩の家臣で、林原健元社長は、当時の池田の殿様だったとのことです。

もちろんこれは真偽の確かめようのないことですが、岡山の広大な土地を持つ林原家の跡取りであり、基礎研究に莫大な資金を投入し、自身は毎日午前11時半に出社し午後2時半に退社するという殿様待遇の社長業のあり方は、さもありなんと思わせるものです。

自分は林原氏とは一度もお目にかかったことはありませんが、著書の中で幼い頃から霊の存在が見えていたと語られているように、そんな風情を漂わせているような印象で、回りの多くの人たちもそう感じていたようです。

そんなこともあり、岡山にいる時に林原氏宛に一度だけ手紙を書き、当時熱心に行っていた神智学系の瞑想に関する本をお送りしたことがあります。
きっと何かを感じてもらえると思ったのでしょう。
その後簡単な礼状をいただき、今は懐かしい思い出です。

 

そんな政木先生や林原氏のことを、昨日は本を読みながらいろいろと思い出しました。

林原という会社は今は経営権が長瀬産業に移り、旧社名を残したまま存続しています。
そうなるまでの林原はどのような会社であったのか、それは本を読むまでほとんど知ることのないものでしたが、本を読み、だいだい自分の想像していたような会社であったのだと納得しました。

林原はよくも悪くも同族会社の殿様商売をしてきた会社です。
それのいい面もありますが、そのデメリットを回避する施策を打ってこなかったということが致命的です。

『林原家』という本を読み、平成がスタートしてすぐの激動の一年間を振り返るとともに、それが三十年経った今、令和のスタートの時であるということに意味を感じています。

 

同族会社は大胆な意見もスムーズに通り、思い切った長期的施策を取ることができるというメリットがあります。
けれどそれが裏目に出て、会社全体が思わぬ方向へ行こうとしても、そのことに気付くのが遅れ、取り返しの付かないことになりかねません。

昨日は『林原家』とともに、もう一冊コーチングに関する本を読みました。
コーチングの本によく書かれていることですが、どんな立派な人間、コーチでも、その人一人の視点では必ず盲点(スコトーマ)が生まれてしまいます。
ですからそれを解消するため、大成功している経営者や著名なコーチといった人も、自分の立場とはまったく異なる社会人としての経験が浅い若い女性コーチを雇ったりするそうです。

すべては相対の世界のもの、陰と陽、両面を併せ持っています。
そのことを常に自覚し、多面的に物事を見なければなりません。
この世の中に絶対的なものなどないのですから。