覚醒する自我

一昨日、地元広島で行われた理論物理学者保江邦夫先生とリアルファンタジスト響仁さんのコラボ講演会に参加してきました。

UFO、心霊現象、超能力、神道といった様々な分野を解明しようとする異色の物理学者保江邦夫先生とマジックと超能力を混在させた不思議ワールドを具現化させる響仁さんとの協演はとても興味深いものでした。

その中で最も印象に残ったのが、保江先生が最近のマイブームだと言われる緊縛です。
緊縛とは縄で全身をしっかりと縛り上げる、主にSMショーなどで見られるそのことです。

保江先生によると、人間は自分というものの存在を自分の身体、皮膚の内側と認識し、皮膚の外側を自分の外として認識するとのことです。
けれど普段は生活の中で皮膚の感覚を意識することはなく、縄を身体にきつく縛り上げることによって皮膚の存在、感覚を強く認識し、皮膚の内側に閉じ込められた自分という意識、自我を感じ取り、その結果として皮膚の外側にまで自我が拡大し覚醒していくとのことです。

そのことを語っておられる動画がありました。
一昨日話されたこととほぼ同じ内容です。

保江先生から緊縛についての話をお聞きし、自分なりに感じたことを書いてみます。

この動画の中でも語っておられるように、皮膚は脳や神経が生まれる元となっているものです。
その他にも打楽器の素材に動物の皮が使われているように皮膚は振動して音を感知し、匂いを感じる鼻の粘膜、味を感じる舌も皮膚から変化したものであり、多くの機能を有すると同時にそれらの基盤となっています。
また皮膚に光を当てることによって体内時計が調整されることも明らかになっており、皮膚は五感を統合するものであり、さらに五感すべては皮膚感覚である触覚の延長であると言っても過言ではありません。

このことは、UFOの分野で最も有名なアダムスキー型円盤、その名前の元となったジョージ・アダムスキーも宇宙哲学ということで同じことを述べています。

 

皮膚は外界と自己とを隔てる最前線であり、もし皮膚がなければ内部組織は露出し体液が流れ出し、乾燥して細菌に感染し、わずかな時間も命を保つことはできません。
皮膚は最も重要な免疫機能を担う器官であり、その免疫システムは脳から独立して機能し、皮膚は「露出した脳」であると言うことができます。

その露出した脳である皮膚を優しくマッサージすることによって心地いい感覚を憶え、人間以外でも猿や猫でも互いに毛づくろいしたり噛みついて刺激を与えて感情の交流を図っています。
その中でも人間は他の動物と比べて体毛が薄く、より皮膚への刺激が敏感であり、皮膚からの感情、感覚へのアクセスが容易になっていて、これが知能の進化とリンクしているものと考えます。

そして感情、感覚へと訴える受容器官としての皮膚は、皮膚と呼ぶよりも肌と表現するのが適切でしょう。

 

けれど現代人は極めて快適な日常生活に安住し、快不快含めた様々な刺激から遠ざかり、本来極めて重要である皮膚感覚をほとんど得ることがなくなっています。
だからこそ緊縛によって眠れる動物性が目覚め、意識が覚醒するのだと考えます。

やはり緊縛は素晴らしい・・・とはいえ一般的にはハードルがとてつもなく高いのは事実であり、そこまで至らなくても同様の感覚は得ることができます。

猿が毛づくろいし合うことをグルーミングと言い、これは人間が子どもや赤ちゃんを優しく撫でるのと同じです。
優しく撫でられ、肌を軽く刺激されて心地よく感じるのは動物としての本能です。

この撫でたりマッサージは他人には行っても、自分自身には怪我や痛みがある時以外はほとんど行うことはありませんが、これを感情を込めて自分に行ってください。
その意外な効果にきっと驚かれるでしょう。

何かで怒りや不快な気分を味わった時、手首から上の前腕部、そこを子どもを労るように軽く撫でてみてください。
できれば服の上からではなく肌に直接、体毛に軽く触れるようなソフトタッチでです。

この体毛を意識しながら軽く触れるというのがポイントで、濃い体毛を捨てながらも人間が薄い体毛を残したのは、肌への微細な感覚を求めた結果なのではと推察します。

自分に優しく自分を労るこの行為により、きっと心が軽くなるのを感じてもらえるはずです。

 

緊縛の効果を保江先生から初めてお聞きし、自らの習慣を振り返ってみて、日々お風呂の中で行っている「身体との対話」がそれに近いということに気が付きました。
自分はこれをもう二十年以上実践し、数ある健康法の中で最も大切なものと位置付けています。

身体との対話
全身を手のひらで撫でる(手当て)
感謝の言葉を口に出して唱える(声がけ)
そこに視線を送る(意識を傾ける)

お風呂で身体を洗う時に石けんは使いません。
身体との対話で全身をくまなく丁寧に撫でていきます。
その時は手で触れないところがないように、耳なし法一になった気分で行い、感謝の気持ちを心を込め実際に口から言葉として出し、目でしっかりと見つめます。

手で全身を撫で終わったら亀の子だわしで同じく全身をゴシゴシと擦る、これが日々の入浴メニューです。

これが自分にとっての最高の健康法であり、ここで全身とコミュニケーションすることで身体からの反応を感じ、感覚が鋭くなりました。
緊縛が自己、自我を認識する手段であるように、この身体との対話でも同様のことを感じます。

保江先生は、
「普通の人は自分というものを皮膚の内側であると感じ、それは私も同じです」
と言われましたが、自分の感覚は少し違います。

これはこのホームページで何度も書いてきたことです。
身体との対話を始めた当初は、自分の意識である自我と自分の身体とがより親密な関係で結ばれるであろうと考えていました。
けれど実際は違いました。
身体との対話を続ければ続けるほど、自我が身体から遠ざかり、身体は自分自身ではないという感覚が強まるのです。

これは言葉で説明できるものではなく、自らの感覚で捉えるしかありません。
それを理屈で述べるならばあくまでも想像ですが、有限の肉体が有する自我とはきっと身体と同じ位置にあるのだと思います。
けれど人間は本来は永遠の生命を持った霊的存在であり、それを言葉では真我とでも表することができ、その真我が身体の外側にあり、日々の肌への刺激によって自分の意識の中心が自我から真我へと移行していっているのではないかと考えます。

そしてその意識の位置は自分の場合は後頭部の後ろです。
背後霊がいるとされる位置と同じかもしれません。
そこから自分の身体を観て、身体という肉体存在を感じています。

 

緊縛が実際にどのような感覚をもたらすのか、実際に体験していない自分には想像するしかできませんが、その話から日々の身体との対話の意味を考え直すキッカケを得ることができました。

緊縛からはもうひとつ大きく考えさせられることがあったのですが、長くなるので続きます。

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