「タオへの道」の続きです。
咀嚼を意識しだしたから二ヶ月、いろんな流れが順調に感じられてきた中、初めて出合った大きなトラブルでした。
物事を正しく見つめるためには冷静にならなければなりません。
まずはざわつく心の中の感情を手放すことが第一です。
いつものようにセドナメソッドを行い、感情を込めて手のひらに握りしめたたペンを下に向かって落としました。
次は手放したい感情を自分の少し前方にイメージした宝石箱に入れ、それをダイナマイトで爆発させ、宇宙の彼方へと還します。
これは「今すぐ人生を変える簡単な6つの方法 」の手法です。
このテキストには書いていませんが、これをトーラスの形で自分の元へと循環させるとさらに効果的です。
そして最後はタッピング、これもやはりとても簡単で効果的です。
<タッピングのすすめ>
タッピングは自分だけではなく、他の人にもしてあげることができるので、家族や身近な人、介護されている方などに是非活用していただきたいものです。
これで八割方気持ちがスッキリしました。
心の中に、怒り、悲しみ、後悔・・・様々な感情が渦巻いていると正しい判断ができず、プラス方向に物事を考えることができません。
このトラブルを、今の自分を振り返り大きく飛躍する一歩である、そう考えることにしました。
インドを訪ねることこれまで十回、特に今年のインド訪問は実りが大きく、そんなことをいろんなところで語っていると、インドに興味を持ってくださる方が少しずつ増えてきました。
来年は何人かでインドを訪ねられるかもしれません。
そんな方たちにインドのことをより深く知ってもらため、南インドとのご縁を結んでくださった日本山妙法寺サンカランコービル道場の石谷政雄上人の記事が掲載されているカルナという雑誌を読んでいただきたいと思い、自分も再び読み返してみました。
カルナというスピリチュアル系の雑誌の2010年の8,9,10月号、三ヶ月にわたって石谷上人のことが集中連載されています。
石谷上人こそ仏の道の原点を歩む真の宗教者です。
自らの命を省みず、これまで数々の苦難と奇跡の行を成し遂げてこられました。
この石谷上人と出会えたこと、石谷上人によってインドへと導かれたことは、自分にとって大きな誇りです。
この三冊のカルナにはそんな石谷上人の宗教家としての道筋がとても分かりやすくまとめられています。
今は入手困難ですが、石谷上人の記事の部分だけでも冊子にしていただければと願います。
ご希望の方はコピーしてお送りします。
今思えばこの本との出合いも不思議です。
カルナという雑誌はとてもマニアックで、どこの書店にでも並べられているというものではありません。
ある時たまたま市内で最も大きな書店に行き、普段は見ることのないその店の雑誌コーナーを眺め、表紙に大きく写っている石谷上人の写真を偶然見つけ、カルナという雑誌の存在を初めて知りました。
カルナの記事はこれまで何度も読み返しました。
けれど久し振りに目を通し、インドへの思いがまた大きく湧き上がってきました。
そのカルナ10月号に開祖日蓮上人のお仏像の話が載っています。
石谷上人は故郷北海道の旭川にも小さな小屋のようなお寺を持っておられます。
そのお寺がある時火事に遭い、お仏堂は焼け残ったものの、大切な日蓮さんの像が焼けてしまいました。
何人かの方が火事見舞としてお布施をくださったので、それを預けた預金通帳を持ち、東京を訪ねた際、虫の知らせのようなものを感じてN商会という仏像屋さんに入りました。
「これしかお金はないけれどもなんとか日蓮さまの仏像を」と店主に話したところ、奥から日蓮さんの仏像を持ってこられました。
けれどそれでは正札の付いた大根を買うような感じなので、誰か彫刻家に頼んでこのために一生懸命彫って欲しいとお願いをし、日蓮さまの像を専門に彫られるS田さんという彫刻家を紹介していただき、その完成を祈りながら待ちました。
その後東京多摩の大きな日本山妙法寺のお寺の法要に参加している時に仏像完成の連絡をもらい、その像を受け取りに行きました。
ところが包みを開いたら、びっくりしました。
もう、顔になっていないんですよ。
子供が粘土細工をたき潰したような出来損ないなんです。
仏像はその場で店主と彫刻家の方に突き返し、後日その彫刻家から、
「これは本当にとんでもない出来損ないになっていた。自分は夢の中で彫刻をしたような不思議な体験をした」と、お詫びの電話があったそうです。
それを受け石谷上人は、
いや、いいんです。
それは私の心が反映したんでしょう、と私は言いました。
あなたの手を借りたかもしれないげど、私の心が反映してそういう出来損ないになったんだから、あなたの責任じゃない、これは私の責任だから、とね。
その日のお寺には大阪から日蓮宗のお坊さんと信者さんが来られていて、本当はその日に用事があって大阪に帰らなくてはいけなくて、その方を玄関先までお送りしたものの、何か胸騒ぎがしたそうで、再び日本山のお寺に戻ってこられていました。
その方が、石谷上人が仏像屋と電話でやり取りをしているのを耳にし、是非自分たちに新しい日蓮さまの仏像を探させて欲しいと申し出られました。
その方のお名前が仏像屋と同じN上人、そして信者さんのお名前がS田さん、彫刻家の方と同じということで、何か偶然ではないものを感じ、石谷上人のお声を、日蓮上人を通して自分たちに聞かせてもらっていると感じられたそうです。
その後、日蓮さま七百忌という大事な年の大晦日に、立派な日蓮像は完成しました。
このお話は、石谷上人から直接何度か聴かせていただいたことがあります。
けれど昨日再びその話を文字として目にし、魂の深いところに強烈に響きました。
・・・ このお話はまさに今の自分である ・・・
カメラのセンサー、その裏側にこびりついた汚れ、それはまさしく今の己の心の反映である、そのことが直感として魂に響いたのです。
このことを示してくださり、気付かせていただいた、これはただただ喜びの一言です。
それを導いてくれたもの、それは神なのか仏なのか、あるいは天なのか真我なのかEverything Greatなのか、名称は分かりませんが、何かとてつもなく大きなもの、 “すべて” に包まれ導かれている、そんな幸福感と絶対的安心感を全身を包みました。
ほんの四時間ほど前に感じていたマイナス感情が、いっきに幸福感へと反転してしまったのです。
これもタオへ至るひとつの道でしょう。
そこに至る道筋を明確に示してもらいました。
私は自分の考え方を探究することで、あるがままの現実に異議を唱えるのはまともではないということが分かりました。
今起きていること以外のことが起きて欲しいとはもう思いません。
すべてをあるがまま受け入れる。
生きていること、それは奇跡の連続です。
今生きている、それに勝る奇跡はありません。
心の中に付着したセンサーの汚れ、これを取り除いた向こうにあるタオに向かって歩んで行きます。
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