安楽死について考える

白バラ

先週Kindleの日替わりセールで「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)に冒された老教師が元教え子に死について、人生について語る「モリー先生との火曜日」という本を読みました。

ALSとは身体の筋肉が萎縮し、徐々に機能が衰え、思考能力は維持されるもののそれを意思表示することができなくなり、最終的には生命機能を保つことができず死に至るという病で、現在は効果的な治療法はなく、進行を遅らすことしかできないとされる難病です。

実話に基づくこの物語の中で、ALSに冒され徐々に自分でできることが限ら、食事から排泄に至るまで他人の力を借りなければできないようになっても明るい気持ちを忘れず、最期まで生の喜びを享受したモリー先生の言葉は重いものでした。

 

そのモリー先生と同じALSを患っていた五十代の女性が安楽死の希望を持ち、そこに金銭の授受を経た上で二人の医師が薬物を投与し、それが嘱託殺人にあたるとして大きなニュースになっています。
ALS嘱託殺人の2容疑者、20年前の大学時代に接点か:朝日新聞デジタル

重病患者に自らの死を選ぶ権利があるかどうか、それを他人が幇助することが是か非か、これは極めて重要かつ深い問題であり、ネットにも様々な意見が出ています。

今回の場合、過去の安楽死を巡る裁判によって示された安楽死の基準となる四要件を主治医ではない二人が満たしていたとは考えられず、二人が法的に処罰されるのは致し方ないと考えられます。
(主治医には安楽死を拒否されています)

<東海大学付属病院事件の裁判で示された、医師による積極的安楽死が認められる四要件>

  1. 耐えられないほどの肉体的苦痛が患者にある
  2. 死期が迫っている(終末期
  3. 肉体的苦痛を除去・緩和する方法をやり尽くし、積極的安楽死のほかにもう代替手段がない
  4. 患者が明らかな(明示)意思表示をしている 

 

ここで自らの考えを述べさせていただくならば、自分がもしALS患者となり、身体の自由が利かなくなって回りの人や社会に対して大きな負担をかけざる得なくなったなら、積極的な死を選びたいと思います。
また回りの何人かの人たちもまた自分と同じ考えを持つ人が多いようです。

もちろん身近なごく少数の人の意見が日本の世論を代表するものだとは思いませんし、また実際に自分がそのような状態になった時、今と同じ考えを維持しているかどうかも分かりません。

けれどマスコミに出ている意見のほとんどは「安楽死は安易に認めるべきではない」というもので、それを全面的に肯定するのはいつも過激な発言で物議を醸す石原慎太郎氏ぐらいのものです。
石原慎太郎氏、嘱託殺人事件は「切腹の際の苦しみを救うための介錯」と投稿し物議

切腹などというのは考えただけでも恐ろしい行為ですが、昔の日本人が喜びと潔さをもって切腹ができたのは、当時の武士が死も生と同様に美しいものであるという死生観を持っていたからに違いありません。
その当時は、口減らし、子消し、姥捨てなどというものがあり、民衆もまた今とは異なる死生観があったのだと思います。

マスコミに安楽死否定論が多いのは、それが非常にシビアな問題であり、安楽死否定論が生を尊ぶ社会的善であり、安楽死肯定論が生の尊厳を軽視し、生を選別する社会悪といった風潮がある中で、よほどしっかりとした理論と覚悟がなければ肯定論は発言しにくいからだと感じます。

 

たとえどんな状態であれ、自らの生を尊び、それをすべて燃焼させようと努力するのは素晴らしいことです。
そしてそれを実践し、重い病気や障害を克服し日々希望を持って生活をしている方もおられます。

先の本のテーマとなったモリー先生や同じALSの恩田聖敬さんなどもそうです。
「尊厳死議論の前に本質理解を」 ALS患者で「FC岐阜」運営会社元社長が訴え

 「生き地獄を味わいながら生き続けるか、生き地獄から解放されるために死ぬか?」。ALS患者の境遇について、恩田さんは「二者択一ではない」と強調し、二つの選択肢から選ばず、常に改善を模索したいと訴える。「我々はALSの本質を理解する医師や介護者の熱意によって普通に生きている。この少数が多数派になれば、二者択一の考え方は自然と消えると思う」と重ねた。

 安楽死や尊厳死の法整備の動きについては、毎日新聞の取材に「いじめや鬱で死にたいという人に、死なせてあげればという意見はなく、相談窓口などで全力で生きる方向へ導く」と指摘。「ALSは、適切な介助者たちがいれば普通に生きられる病気だ」と答えた。法整備されれば、「解決策を考えることなく『じゃあ死にましょう』ということを法的に認めることになる」と危惧している。

けれどすべてのALS患者がこのような明るい気持ちと希望を持って生きることは不可能であり、その場合はどうするべきかが課題です。

「生き地獄を味わいながら生き続けるか、生き地獄から解放されるために死ぬか?」この二者択一の考え方は自然と消えると書かれていますが、それは違うと思います。
どんなことでも100%はありえません。
薄れる人はあっても完全に消えることはないでしょう。

またもしALSでこの課題が解決したとしても、他の難病で同じような課題を突きつけられる人が出てくるはずです。

 

さらに根本的なことを言うならば、安楽死肯定論にしても否定論にしても、どちらもいい面と悪い面があり、絶対に一方が正しいと決めつけられません。
けれどマスコミの意見のほとんどはどちらかのいい面だけを取り上げていて、まったく不毛としか思えない論調に憤りを感じ、あえて反発も多いと予想される自からの論をここに書くことにしました。

自分はどちらかと言うと安楽死肯定論に近い考えです。
このたびの事件では、二人の医師が主治医ではなく患者の病状の詳細を知ることなく、また患者自身も自ら死を導くことのできない重い状態であってもまだ終末期というところには至っておらず、そこに薬物を投与して死に至らしめるというのは法的処罰の対象にはなっても、患者である女性自身は苦しみから解放されて幸せであったのだろうと考えます。

ただ彼女自身が幸せであったからそれでいいという問題ではなく、そこには社会に与える大きな影響というものを考える必要があります。

安楽死肯定論の最も大きな課題は、それによって安易な死を選ぶ人が増えるだろうということです。
人はどんな状態であったとしても、懸命に生きる努力をすることは大切です。
その結果として大きな喜びを見いだせるかどうかは分かりませんが、安易に安楽死を認めることはその努力を諦めてしまう人を増やすことにつながるだろうと考えられます。

また安楽死が死に至るひとつの手段として明示されたならば、回りに大きな負担をかけながらも生きていたいと願う人たちに、死を選ぶべきだという無言のプレッシャーを与えかねません。

さらにはそれらが定着することにより、「生きるためには生きる価値がなければならない」という優生思想を導くことも懸念されます。

 

にも関わらず安楽死肯定論が残るのは、憲法で生存権が認められているのと同じく、死もまた自らの権利として選び取って然るべきだという考え方があるからです。
これは人間としての基本的権利です。

ALS患者であるれいわ新撰組の舩後ふなご靖彦参院議員はこう述べています。
ALSの舩後靖彦氏「死ぬ権利よりも、生きる権利守る社会に」:東京新聞 TOKYO Web

 「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。

舩後議員の言われることはもっともだと思いますが、自分は「死ぬ権利」も「生きる権利」と同等近くに扱われるべきだと考えます。
けれど問題なのは、先に述べたように「死ぬ権利」を尊重することは「生きる権利」を阻害することになりかねないということです。

 

生きるためには食料は欠かすことができません。
今年はコロナ禍に加えて中国での水害、多国間をまたにかけるバッタによる食害、異常気象、世界の食料事情がいつ危うくなってもおかしくありません。

この根本原因のひとつが人類の人口が多すぎるということ、今の地球環境で70億近い人間の胃袋を満たす食料を供給できないという問題があります。

ではそれを減らせばいいという簡単なことでなく、人口抑制は、中国共産党が過去進めていた一人っ子政策のような強権を振るうか戦争を起こすか、あるいは自然と飢饉が起こるのを待つか、このような過激な手段でしか解決できません。

このたびのコロナ禍はある人たちの説く陰謀論によると、人工的に作ったウイルスを意図的にまき散らしたことが原因であり、その治療薬となるウイルスはあらかじめ用意されていて、世界中多くの人たちがそれを求めるようになってからそれを配布し接種させ、そこに出産を妨げる成分を含ませることによって人類の総人口を抑制しようとしているとのことです。

これが本当に真実かどうかは分かりませんが、さもありなんとは思いますし、今の地球の状況を見ると、これが「絶対悪」とは言い切れないと思います。

 

正義と悪とは相対的なものであってその基準はあいまいです。
理想の中では正義のものも、現実社会の尺度で見るとそれが必ずしも正義とはならないこともよくあります。

これからの日本は超高齢化社会を迎えます。
今でも日本は薬漬け医療、検査漬け医療で多数の寝た切り老人の抱えていて、社会保障費は増大する一方です。

その中で「生きる権利」を声高に主張することによって、さらに膨れあがる費用を誰がどのような形で負担していくのでしょうか。

尊い命をお金と天秤に掛けるのは卑しいという考え方がありますが、実際問題として年間二万人にも上る自殺者の原因の多くが経済的問題です。

理想はその対極の現実を伴ってはじめて花開きます。

 

このたびのALS嘱託殺人問題をキッカケに、生と死、理想と現実を見つめ直すべきではないでしょうか。

白バラ