つながる世界

絆

今はエセ・コロナ禍の真っただ中にあり、緊急事態宣言や蔓延防止の名の下で人と人とのつながりが断ち切られようとしています。

人流の制限、会合の禁止、対面で会話をするのも表情の見えないマスク越し、人間の基本的人権を剥奪し、人々を奴隷化することが今の社会を裏で操っている者たちの狙いなのであり、その目論見はグレートリセットと呼ばれています。

これと立ち向かうため、現在真実を知る者たちはそれを伝えることに懸命になっています。
けれどこの動きは日本のみならず世界的なものであり、自分一人が立ち上がっても・・・という気持ちになることも時にはありますが、そんな時には周りの人たちや可愛いインドの子どもたちの明るい笑顔を思い浮かべ、行動に向かって歩を進めています。

 

3.11の震災の時は“絆”という言葉が大きくクローズアップされました。
何か具体的な手助けがなくても、心と心の結びつき、絆というものがあれば希望が持て、励みになります。
いくら状況が悲惨でも、何とか生きていこうという気持ちが保てるものです。

その大切な絆を行動面でも心理面でも断ち切ろうとするのがエセ・コロナ禍、もっと具体的に言うと何の具体的根拠のないままに実施され、自粛を強要する“コロナ対策”です。

今のような希望が持てない社会状況が続くと、多くの人が鬱を患ったり自殺者もますます増えてくるでしょう。
特に現在急速に増えている児童、生徒たち若年層の自殺と精神的被害が深刻です。

街で何の疑問も持たずにマスクを着けている小さな子どもたちを見ると胸が痛みます。
今年の2月19日、文科省発行の「学校運営ガイドライン」から児童、生徒へのマスク着用を推奨する文言が削除されています。
にも関わらず、子どもたちは相変わらず口許をマスクで隠した常時酸欠、雑菌繁殖状態で、相手の表情を見ることのできない非人間的コミュニケーションを取らされています。
これは無知であり事なかれ主義であり、周りの保護者や学校に大きな責任があります。

マスクの害については「エセ・コロナ禍の真実」「マスクは不要」をお読みください。

 

将来への不安、人との関わりを断ち切られている今だからこそ、つながり、絆といったものがとても大切です。

それはどこで得られるのでしょう。
思い出すのは今から十年前の2011年、3.11の震災があった時のことです。

3.11の翌日の3月12日は第二土曜日で、毎月行っている公衆トイレ掃除の日でした。
ここ広島は被災地東北とは遠く離れていて、テレビで津波の被災状況は詳細に見ていても、直接何か手助けをすることはできません。

そんな思いを抱きながら行うトイレ掃除はいつもとは違う感覚で、この磨き上げている便器に対する思いが被災地に伝われば、そんな思いが湧いてきて、いつもよりも自然と手に力が入ってくるのを感じました。

それは願いとともに、「この思いはきっと被災地につながる」という確信に近いそんな感覚が心の内から湧き上がってきたのです。

 

それと同じ感覚を先週末に行ったトイレ掃除でも感じました。

その日は光が丘山根公園というきれいな公園の公衆トイレを五人で磨き、自分は男子用小便器の水濾しを磨かせてもらいました。
Twitterにも写真を上げましたが、ちょっとここに載せるのははばかられるぐらいベットリと尿石がこびりついていました。

水濾し

これを一時間ほどかけて磨き上げていきます。
便器にこびりついた尿石は、半分、八割方落とすのは簡単ですが、ここから先が大変です。
またどうせ汚れるのにこんなことをして何になるんだろう・・・普通はそんな風に思うかもしれませんが、『トイレ掃除は心磨き』、自分との闘いであり、効率とか効果とかはまったく関係ありません。

この日はサンドメッシュというヤスリが目の細かい400番しかなく、特に苦労しました。
同じところを数百回は磨かなければしつこい汚れは落ちません。

そんな一見虚しいような汚れとの格闘をしていると、頭に思い浮かぶのは現在のエセ・コロナ禍のことです。
これがどれだけ役に立つのか、そんなことを考えていては情報発信できません。
ただ自分が正しいと思うこと、人様の役に立つと感じることをしていく、そこには損得や効率といった概念は存在しません。

そしてやはり十年前に震災翌日に掃除した時と同じように、この便器にかける思いが必ず苦しんでいる多くの人に伝わっていくんだという感覚が自然と湧いてくるのです。
これは理屈ではありません。

 

理屈ではないので言葉では説明できないのですが、これは自然界の仕組みの中にも同じようなことがあります。

これは「Everything Great」に載せた図です。

Everything Great

 

この時空すべてのものは生命を持っていて、共通の法則で律せられたすべて偉大なる存在です。
そしてその構造を見てみると、超ミクロの原子・素粒子の世界と超マクロの宇宙の姿が、その中間の人間の日常世界を飛ばし、極めて近似した構造をしているのです。

相反する極端なもの同士だからまったく逆なのではなく、極小と極大だからとてもよく似ているというのは実に面白くて深い真理をはらんでいます。

縮み切ったバネは反発して大きく伸びようとし、大きく膨らみすぎた風船は破裂して一瞬のうちにしぼんでしまいます。

 

だからこそ、というと理屈っぽいですが、日常にある汚れきった便器だからこそ、それと対峙することが広い世界の暗部にメスを入れることにつながるのではないか、そんなことを便器を磨いていて体で感じるのです。

これは便器でなければいけないということではありません。
この時空のあるものすべてはつながっています。
けれど日常生活ではなかなかそれを実感することがなく、時に虚しく思うこともありますが、その思いを正してくれる力がトイレ掃除にはある、そう感じます。

 

二人で水濾しを一個ずつ一時間磨いてこれが成果です。

水濾し

まだまだですね。
最後が特に大変で、便器磨きに完璧、ゴールといったものはありません。

けれど最後はなかなか進まないものの、それでも着実に少しずつはキレイになっていきます。
それを信じてやり続けること、それが大きな学びです。

真実はいつか必ず伝わる。
終わりなきゴールに向かい、ただ自分の行として「エセ・コロナ禍の真実」を発信していきます。