命の教育

先にアップした「生命への感謝」の続きです。

小さな女の子が可愛がっていた牛が解体され、その肉を家族みんなで喜んでいただくという生命の大切さを伝える絵本、これに対して残酷だとか、ホラーだと意見する人たちがいます。

ひとつのことに対していろんな意見があるのは当然です。
ましてや生命に関わること、自ら可愛がっていた牛が解体されるという極めて非日常的なことなので、真反対の感じ方をされるのは自然なことだと思います。

ですからこれを素晴らしいと捉える人と、心を傷つける残酷なことだと捉える人、どちらが正しいのかを決めることはできません。

ただ思うのは、もしこれと同じ話を世界中のいろんな国でしたならば、たぶん残酷だとする人の意見は日本が圧倒的に多いのではないかということです。

 

日本はとても美しい国です。
町並みは整い、道路にゴミが散乱していたり、浮浪者や物乞いが町を闊歩していることはほとんどありません。

その美しさは美徳である反面、本来人間や自然が持っている醜い面を覆い隠し、不浄な面を見えないようにしていることであり、これは不自然であり、反自然です。

日本は世界の中でも経済的に恵まれた豊かな国です。
近代的な文明や文化を持っていますが、その文明や文化というものは100%ではないにしても、例えば舗装された道路、快適な空調設備、通信網、インフラといったものを見て分かるように、自然から乖離することによって成り立っています。

 

インドから日本に帰ってきていつも思うのは、日本には自然がないということです。
自然とは、山に木があり公園に花が植わっている、そんなことではありません。
生きとし生けるものの息吹が感じられるかどうか、生命のダイナミズム、生命あるものの営み、その循環サイクルが感じ取れるかどうかということで、残念ながら、今の日本の日常ではそれをほとんど感じ取ることができません。

町の花壇に植えられている花は、その花の季節が終わると引っこ抜かれ、新しく花を咲かすものへと植え替えられます。
スーパーの食品売り場に並べられている肉や魚は、ほとんどが適当な大きさにカットし、発泡スチロールのトレーに載ってラップをかけられたものばかりです。

野菜も生産地と消費地が隔離され、身近なところで野菜が育つのを目にすることはなく、普段食卓に並ぶ野菜が、木になっているものか土の中で育つものなのか、何も知らない子どもには想像すらできません。

今年の初め、某学園ドラマで珍妙なシーンがあり、ネットで話題となりました。

これを演出した人は、大きく葉を巻いた畑のキャベツを見たことがないのでしょうか。

 

自分は日本以外ではインドのことしかよく分かりませんが、インドの村では、ほとんど裸の状態の子どもからただ座っているだけのお年寄り、身体に障害を抱えた人たち、いろんな人たちがそれぞれのスタイルで時を過ごしています。

その間を、牛や水牛、山羊、羊、鶏といった動物たちが顔をのぞかせ、人間と動物との生の営みを感じさせます。

そして村には電気は通っているものの、ほとんどの家には冷蔵庫はなく、肉も魚も野菜も、すべては近隣で採れた旬のものばかりで、狭い地域での生命の循環というものを身をもって感じ取ることができます。

 

生命とはキレイな面だけではなく、臭く汚いものもたくさんあり、日本ではそういった不浄なものを徹底的に排除することが文化とされています。

行き過ぎた抗菌、滅菌指向はそのひとつで、幼い頃に泥にまみれて抵抗力をつけることのできなかった日本人は、アトピーやアレルギーを発症しやすくなり、衛生環境の悪い外国に行くとすぐにお腹を壊してしまいます。

そしてその行き着く先が“死の排除”です。
日本では、葬儀の場所以外で死体を目にすることはほとんどありません。
事故現場の死体はすぐにシートで覆い隠され、死体の写真や映像がメディアに載ることはありません。

インドでは新聞に死体を含めた事故現場の写真がバンバン登場します。
新聞に書かれている言語が理解できなくても、その写真を見れば、水難事故なのか土砂崩れなのかすぐに分かります。

そのことをインド人に言うと、
「日本人は死体を恐れるが、インド人は恐れない」
と言っていました。

これは恐れる恐れないの問題ではなく、浄不浄、あるいは死者への尊厳といったものだと思います。
インドでは輪廻の思想が徹底していて、ヒンズー教ではお墓を作るといった文化がありません。
ですから死体は一種もののような扱いなのかと感じます。

町の中心部に掲げられているバイク事故防止の看板に、悲惨な格好で事故死した死体の写真がデカデカと載せられているのには驚きました。
そんな写真、遺族の人が見たらどう思うのでしょう・・・、そう危惧するのは日本人的感覚なのでしょうか。

 

日本では死というのは隠すべきもので、今の日本で、死を自宅で迎える人はごく少数です。
ほとんどの場合は病院で死を迎えます。
そして死の時が近づいてきたら一般の病室から個室に移され、他の患者の目に入らないところで死を迎え、その後遺体はひっそりと霊安室に運ばれます。

昔の日本は自宅で産婆さんを呼んで出産し、自宅で死を迎え、自宅で葬儀を行うのが一般的でしたが、今は出産と死は病院で、葬儀も葬儀場をお借りしてというのが大多数になっています。

自宅は日常を過す場です。
つまり昔は人間の生き死には日常であったものが、今は非日常となり、隠されるべきものとして、より生々しく忌まわしいイメージが増幅されるようになったのではないかと感じます。

 

インドのホームには、鶏、七面鳥、山羊や牛といった動物がたくさんいて、時にはそれらが食材となり、ホームの子どもたちによって捌かれることがあります。

これは子どもたちが七面鳥を捌いている様子です。
インドではまな板をあまり使わず、手で食材を持ち上げた状態でカツトします。

ついさっきまで元気に走り回っていた七面鳥が・・・という思いがありますが、それは日本人的感傷なのでしょう。
これがその食材となった七面鳥くんたちです。

七面鳥

 

生きるとは生命をいただくこと、それを生活の中で実感し、直視できるインド人はすごいと思います。

日本でも、どこかの高校で鶏を飼い、それを自らの手で解体し、食すという実習をしている学校があるというのを聞いたことがあります。
それを適当なキーワードで検索してみるとありました。
インターネットはすごいです。

福岡県立久留米筑水高校での「命の教育」を「情熱大陸」という番組がドキュメンタリーとして報じていました。

これも『いのちをいただくの朗読』と同じく、涙なくして観ることができません。

実習をする一年生の生徒たち一人一人がひとつの受精卵から雛を孵し、それを大きくなるまで手塩をかけて育て、最後はそれを自分たちの手で解体し、その生命をいただきます。

これは自然から隔離された生き方をする現代の子どもたちに対し、なんとか自然、生命というものを身体で理解してもらおうとする試みと言えます。

この番組が放送されたのは2013年で、その時点でこの「命の授業」は16年間続けられ、その間マスコミでも大きく取り上げられ、国や自治体から表彰を受けながらも、やはり賛否を問う声があるとのことです。

 

究極の理想は、生命の尊さを日々感じると同時に、それが持つ残酷さも当然のこととして受け止める姿勢です。
けれど現代人がそれをできないのは無理のないことです。

「絵本 いのちをいいただく」、「命の授業」に対する批判的な声は、反自然的な生き方をする現代人に対する警鐘だと受け止めます。

 

生命とはただ清らかなだけではなく、数多くの葛藤と“争った”のち生まれる“浄なるもの”。
それは泥水の中で咲く蓮の花に例えられます。

蓮の花