このたびローマカトリックの最高指導者として38年ぶりに日本を訪れたフランシコ教皇が、被爆地長崎に続き、ここ広島を昨夜訪ねられ、平和記念公園で平和のメッセージを発信されました。
現在のローマ教皇はとても気さくで親しみやすいお人柄で、世界13億人いると言われているカトリック教徒から絶大な人気を得ているとのことです。
そのローマ教皇の広島でのスピーチは、戦争に反対し、戦争のための原子力利用を強く戒める素晴らしい平和のメッセージであり、遠くバチカンから広島に来てくださったことに広島の一市民として心から感謝の意を表します。
けれどその発せられたメッセージは尊い平和的なものではあるものの、これまでの歴史的事実から、本来望むことすらできないようなことを自らの思いとして感じてしまいます。
1945年8月6日、人類初の原子爆弾がたくさんの人たちが暮らす広島の街に投下されました。
それを投下してのはアメリカ軍のB29爆撃機、エノラゲイと呼ばれる機体です。
そこには12名の乗員がいて、その全員がカトリック教徒でした。
それはカトリック教徒が好戦的な考え方を持っているというのではなく、キリスト教社会のアメリカにおいて多数派はプロテスタントであり、少数派であるカトリックは虐げられた立場にあり、それゆえに辛い任務である原爆投下という役割を担わされたというのが理由のようです。
そして後年明らかなったことによると、エノラゲイにはさらにもう一人乗組員がいて、それがアメリカカトリックの神父であり、その神父が『原爆投下に対する神の赦し』を与えたとのことです。
<ドクター苫米地ブログ - デスコト国連総会議長と歓談した。エノラゲイについて歴史的な発言だ。>
このことをローマ教皇に謝罪して欲しいとは思いません。
またこれまで出会ってきたたくさんの広島の被爆者の方たちで、アメリカ軍の原爆投下に対して強い憎しみを抱いている人はおられなかったように感じます。
ただ、もし本当に核戦争をなくしたいと望むのなら、なぜこういった過ちが生まれたのか、こういった過ちを産み出した原因が教義の中のどこに存在するのか、それを冷静に検証しなければ、再び同じ過ちを繰り返すのを防ぐことはできないのではないでしょうか。
ここで酒井伸雄の本音で言わせていただくと、自らの外に絶対的権威を置く一神教は、その信じる神、絶対的存在の違いから、その神よりも存在価値が下位である人間の生命を殺めてまでも自らの教えを守ろうとします。
たくさんの一神教にそれぞれの絶対神がいて、異なる絶対と絶対は相容れることができず、そこから諍いが生まれるのは必然です。
今日はたまたま「ホテルムンバイ」という2008年、インドの大都市ムンバイで実際に起こったテロを題材にした映画を観てきました。
このテロの実行犯たちはイスラム原理主義者とされていて、彼らは神の名の元に数百名もの罪のない人たちの生命を奪い去りました。
一神教が即危険思想だとは言いませんが、究極の平和を求める中で、それを阻害する要因があることは事実です。
真に絶対的なものとは各一神教が信じる神ではなく、どんな時代、どんな人たちでも普遍的に感じ取れるもの、それが身の回りの自然であり、天体の運行、季節の移り変わりであり、生きとし生けるもの生命です。
理想論と言われるかもしれませんが、それが人類の求めるべき真の絶対的真理だと考えます。
そしてそれに基づき『新たなる生命の時代』をまとめました。
『サムシンググレード』という言葉があります。
己の外に偉大にものの存在を感じ取るのは敬虔なことですが、その偉大なるサムシングというものが、キリスト教徒とイスラム教徒で違いがあれば、そこに融和は生まれません。
すべのもの、すべての普遍的なものこそが偉大である。
だからこそ『Everything Great』です。
さらにもう一言付け加えるならば、未来への理想を述べることは簡単ですが、エノラゲイのことを含め、過去の事実を真摯な目で見つめていくのは辛い作業です。
けれどそれをしなければ『臭いものに蓋をする』ということになりかねません。
もしローマ教皇が「戦争のための原子力利用」に本気で強く反対するのであれば、
「広島、長崎への原爆投下は戦争終結を早めるために必要な手段だった」
というアメリカの世論に向けて意見を発すべきでしょう。
長崎、広島で述べられた平和のメッセージは、本来は核保有国であるアメリカ、ロシア、北朝鮮等で発すべきことではないかと考えます。
偏狭な意見かもしれませんが、こういった考え方をする広島市民もいるということを頭の片隅に入れていただければ幸いです。
心から世界の平和を願います。
コメントを残す