内的探究

幼な子のようにならなければ

真理は深ければ深いほどシンプルで身近なものである。
そのことはこのホームページで何度も繰り返し書いてきました。

それが生命の本質であり、東洋の理であり、そのシンプルなことを体感、体得することこそ生きる目的ではないのかと感じます。

自分はそれを頭では知っていても、それを体得できているわけではありません。
だからこそここに何度も同じことを書き、人様に知らせると同時に己に言い聞かせているのです。

 

けれど人間はみな生まれた時はそれを体得していて、幼な子はみな素直に自分らしく生きています。

幼な子のようにならなければ

けれど高い知能を有し社会生活を営む人間は、その上に様々なものを身に付けていかねばならず、いったんはその生命の本質から離れ、そしていつか再び原点に還ることを目指す、そんな旅をしているのではないかと思います。

その原点であり最も身近なものが、「成功から幸福へ<2>」で書いた三木清の説くところの幸福、自分の内に比べるもののない絶対的なものです。

 

今、明治から昭和初期頃の文学を、価値ある古典として日々読むことを楽しみにし、そこから深い学びを得ています。

本来そういった古典的名作は日本人にとって極めて身近な存在であるはずですが、今はインターネットをはじめとした膨大な情報に囲まれ、古典を振り返る時間的余裕がありません。

また素晴らしい作品は幼い頃から触れさせようと、義務教育の国語の教科書には漱石や鴎外といった文豪作品が載せられていて、それが親しみを持たせることと、逆に「古典は子ども時分に読むもの」といって遠ざけてしまう両方の効果があるように思われます。

 

自分は学校の勉強はまったく真面目にやらなかったタイプですが、それでも高校の国語の教科書に出てきた中島敦「山月記」の理路整然として美文に心打たれ、冒頭の十行程度は誦じることができるぐらい読み込みました。

そしてあの当時から四十年あまり経った今、再び中島敦に触れる機会を持ち、その美しい文章で綴られた深い人間描写、・・・いえ、人間描写と表現するのはあまりに俗すぎます。
心の機微の表現とでも言えばいいのでしょうか、その深遠なる内的表現は、小説の形を借りた哲学書を読んでいるかのようです。

今読み進めているのはこの31作品が一冊になったもの。
電子書籍Kindle版でわずか99円です。

 

この中に西遊記を題材にしたものが二作品あります。
西遊記とはいわゆる孫悟空のお話です。

一作品は「悟浄出世」、沙悟浄が自らの苦難から脱したいと願って旅をし、三蔵法師一行と出会うまでの話です。

その続きとなるのが「悟浄歎異」で、沙悟浄の目から見た三蔵法師、悟空、猪八戒の姿を描いていて、その各人の内面描写が実に深く、読んでいる途中で、「西遊記へ中島敦の作品だったのかな」と、勘違いを起こさせるほどです。

ほとんどの日本人は、西遊記のあらすじや一行四人の個性は熟知しておられると思います。
その上でこの作品を読むと、それぞれ四人の思いや出会った必然性がさらに深く得心できることでしょう。

 

この限りなく深みにある作品を簡単に紹介することはできません。
ですからひとつだけ心に響く残ったことをご紹介します。

それはすべての深い真理は、ひとつのところに行き着くということです。

三木清の作品しかり、中島敦しかり、そこで語られていること、今人類が目指そうとしていること、それは内的世界の探究です。

「悟浄歎異」の一節をここに記します。

 

悟空のあの実効的な天才に比べて、三蔵法師は、なんと実務的には鈍物であることか!
だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならなぬ。
外面的な困難にぶつかった時、師父は、それを切り抜ける途(みち)を外に求めずして、内に求める。
つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。
いや、そのとき慌てて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生(へいぜい)から構えができてしまっている。
いつどこで窮死してもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。
だから、外に途を求める必要がないのだ。

※ 師父とは三蔵法師のこと

 

夏目雅子、堺正章の西遊記は最高です。