『人間は食べ物のお化けである』
人間が生きていくためには、空気とともに食べ物が必要不可欠です。
そして人間の体は、その食べ物が変化したものでできています。
ですから人間が日々どのようなものを、どのような形で食べるかということは、人間の心と体両面に大きな影響を与えるのは当然です。
これまでの西洋栄養学では、カロリーや各栄養素のすべてを加えたものの数値だけがある一定の範囲内に入っていればいいという考え方でしたが、その食品が本当に生命あるものなのかどうか、それをどの様な形で体に取り入れるのか、これからはそういったことがより大切になってくるものと思われます。
自分が食についてこだわっているのは大きく二つあります。
ひとつは感謝していただくということ、もうひとつはその感謝の思いを形として表わしたものとして、よく咀嚼し、出されたものは残さずいただくということです。
食事の前には両手を合わせて「いただきます」、食べた後にも両手を合わせて「ご馳走様」、この日本人なら当たり前の感謝の言葉を、外で食事をする時も家で一人の時も、欠かすことはありません。
何年か前、家の近くの区役所の食堂でお昼を食べている時、離れた席に座っていたおばあさんが下膳のために横を通る際、
「オニイサン、食べる前にキチンと手を合わせていたね。立派だね。ちょっと体触らせて」
と言って、肩に軽くて手を触れてくださったのは楽しい思い出です。
出されたものを残さずすべていただくのも感謝の現れです。
これは「母の遺言だから」ということにしています。
またすべてをいただくことは、『全体食』という、食べ物の栄養をバランスよく、生命そのままをいただくということになります。
魚は鰯もサンマも頭、尻尾、骨、内臓、すべてをいただきます。
リンゴはもちろん、梨もぶどうも皮ごと食べてしまいます。
お刺身はつまと呼ばれる大根の千切り、シソの葉、小菊、海藻、これらも残すことはありません。
よく赤ワインはポリフェノールが含まれていて体にいいといいますね。
あれは赤ワインはぶどうの皮ごと発酵させるから。
皮や皮と実(身)の間という境界領域には、ハイブリッドの法則で、生命エネルギーが詰まっています。
そしてその全体を食することで最も調和が取れるのです。
どのようなものでも、大切にしていれば丁寧に接します。
ですから食べ物を残さずいただくことと同時に、しっかりと噛みしめる、咀嚼をするということもまた食べ物への感謝の現れです。
咀嚼の効用は現在日々感じていることであり、最近何度もこのホームページに書きました。
咀嚼は心身両面に大きな変化を与え、その結果として運命をも変える、そう確信しています。
「新たなる生命の時代」の「精神と肉体」にも咀嚼のことを書いています。
是非お読みください。
その他こだわりを持っているのは、スーパーで食料品を買う時は、手前の古いものからということ。
食べる順番はローフードの教えに従い、まずは酵素の生きている生野菜など生の食品から、そして果物は食後ではなく、食前、できれば少し時間を空けた前にいただくということです。
他にもこがし玄米など体にいいと思えるものをいくつか食べることを心がけていますが、これは人それぞれ心身の状態に合わせて考えられるといいと思います。
先日訪ねた大分のなずな農園は畑も田んぼも宿舎となっているところも、いずれも空気が澄み、自然のエネルギーに満ちた本当に素晴らしいところでした。
赤峰勝人さんが実践される循環農法で作られた野菜はその野菜が持つ生命を100%活かし、野菜本来の旨味が凝縮されています。
生で食べたナスとピーマン、旨味と甘味が詰まっていて、とても美味しく味わえました。
特に天然塩を少し添えると、生野菜の陰と塩の陽が調和して旨味が一気に引き立ちます。
宿舎での夜の食事は旅行に参加した女性陣みんなで作ってくださり、素材は味噌汁に使った少量のいりこ以外、米も野菜もすべてなずな農園で作られたものです。
そこでいただいた夜の食事、どの野菜料理も生命エネルギーに満ちあふれていて、ほんの少し噛みしめただけで濃縮した旨味とエネルギーが口を通して体全体に広がっていく感じです。
こんな野菜があれば肉類は一切不要でしょう。
きっとこれを口にした誰しもがそう感じると思います。
お陰でビール、シャンパン、日本酒もぐいぐい進みました。
お酒のあてとしても最高です。
翌日の「野菜ごはん」でのランチも見た目通り味わいが洗練されていて、連日予約で一杯だというのもうなずけます。
こういった料理が最高の食事です。
心も体も舌も、すべてが大満足、幸せに満たされます。
日々こんな食生活を送れたら最高でしょうね。
またそうなりたいと強く願います。
実際大分で二日間過し広島に戻った後は、体調がよく、自分の一番の弱点である視力も少し改善され、パソコンディスプレイの文字が見やすくなっていました。
これは二日間パソコンから離れていた影響もあるかもしれません。
自分はインドに行くと、毎回一ヶ月で約3キロ体重が減少します。
これはたぶんインドでの食事、食材がエネルギーに満ちていて、体の新陳代謝がよくなり、それで余分なものが排泄されるのでないかと感じています。
そのインドと大分のなずな農園で感じること、それは食べ物は数値で表される栄養素だけではなく、その裏に秘められた生命エネルギーを食しているのではないとかいうことです。
タレントの高木美保さんの言葉です。
栃木県の那須高原で田舎暮らしをスタートさせて5年目。最近、私の食生活に、ある特徴があることがわかった。
不思議と、家にいる時は食事の量が少なくても満足感が得られるのに、外食の場合だと、満腹になるまで食べても物足りなさを感じるということだ。
これは、家の畑でとれた野菜類が、新鮮で生命力たっぷりなせいだと私は推測する。
だから少量で満足できるのだ。
ということは、食事というのはつまるところ、生命力の摂取のための行為と考えられないだろうか?
自分のハンドルネームとさせていただいてるパラマハンサ・ヨガナンダ師もその著書の中で、聖書の有名な句
『人はパンのみにて生きるにあらず。神の口から出ずるひとつひとつの言葉によってのみ生きるのである』
というのは、その食品の持つ生命エネルギーのことを指していると述べられています。
生命ある食事を日々口にしたい。
できるなら、そういったものが身近に手に入る、そんな環境を手に入れたいし、また日本中がそうなることを願います。
けれどそうは願うものの、それは今すぐ自分の手でどうすることもできません。
食べ物へのこだわりは、感謝していただくこと、食べ物を残さないこと、よく噛んでいただくこと、これは自らの努力で徹底して行うことができます。
けれど生命ある食を口にするということは、努力で何とかなる部分もあるものの、今いる与えられた環境に大きく左右されるものです。
そのどうにもならないものに深くこだわろうとすると、それがいかにいいことであったとしても、そこに何らかの弊害が生まれます。
自分が求め、伝えたいと願う真理はシンプルなものです。
またどんなに貧しくても、どんなに教養がなくてもだれでもが実践できる。
インドの児童養護施設にいても子どもたちに伝えられることができるもの、それが最高の真理であるというのが自分の信念であり哲学です。
今日本では毎年のように大きな災害が発生しています。
もし自分が被災し、タンクローリーが運んできた水しか飲めなくても、日々コンビニのお弁当やカップラーメンしか食べられなくても、それに100%の感謝の思いで口にできる、そんな自分であることを目指しています。
信念、信条というこだわりを持つことは悪いことではありません。
ただこだわりすぎると悪い面が出ることもあります。
そしてそれには優先順位があります。
自分の中で食に関するこだわりは、感謝するという心の持ち方が一番、出されたものは残さずいただく、しっかりと咀嚼をするという形が二番、そしてその次にくるのが生命ある食べ物をいただくということで、これはあくまでも三番目です。
こういったことは食に限らず、どんなことにもあてはまるでしょう。
こだわるという語源は “拘る” であり、自分の世界や視野を狭くすることであり、その悪い面が出ないよう常に心がけることが必要です。
そのためにも、今この瞬間、すべては満たされているという思い、『足るを知る』この思いを心の中に持つことが大切ですね。
今日も生かされている、そのことに感謝です!(^_^)/
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