心の奥を見つめる

トイレ掃除は心磨き

昨日Facebookでこの投稿を見て、いろんなことを思いました。

困っている時、人から受けた親切は身に沁みます。

上の話は他人から受けた恩をまた別の他人に返す恩送りというもの、来月でロックダウンによって四ヶ月間の長期滞在を余儀なくされたインドから日本に戻ってきて一年になり、その帰国前後で大変大きな恩を受け、その後別の人に別の形で恩を返すことができたあの時の思い出が蘇ります。

インド人ファミリーと

 

『二人だと苦しみは半分に、喜びは倍に』
結婚式のスピーチでよく聞かれる言葉です。

喜びは他人と分かち合うと増えていく、これを法則性のように語るのはヤボですが、喜びの連鎖、喜びの循環系といったものかもしれません。
つまり渦を巻くように大きくなっていくということです。

お風呂では全身を両手を使って手当をし、感謝の声をかけていて、その際最も大切にしているのは身体の末端に位置する爪を優しく揉んでいたわる爪もみです。
この爪もみは自分ではなく、誰か他の人にもんでもらった方が心地いいのです。

これも喜びの循環系です。
自分の中で感謝と喜びを高めていくのも大切ですが、周りの人と分かち合えるともっと素敵です。
そしてこれは宇宙の基本的仕組みのひとつです。
これまで何度か書いてきた『天国と地獄の話』を再掲します。

ある人が仙人に連れられて地獄に行きました。
そこは想像していたのとは違い、花が咲き小鳥がさえずり、とてもきれいなところでした。
そして食堂の中に入るときれいなテーブルに数々のご馳走が並び、その周りをたくさんの人が取り囲んでいます。
しかし全員の手には1メートルもの長い箸がくくりつけられていて、みんな自分の口の中にご馳走を入れようと必死になっているのですが、どうしても食べることができず、みな飢えてしまっています。

今度は天国に行ってみました。
天国の景色は地獄で見たものとまったく同じでした。
食堂もテーブルに並ぶ数々のご馳走も、そして手にくくられている箸も・・・。
しかし違うのは、テーブルを囲む人たちがみな周りの人たちの口に長い箸を使ってご馳走を運び、お互いが分かち合い、みな福々としているということです。

天国と地獄は他人と喜びを分かち合えるかどうか、その心のあり方の中に存在するのです。

 

そのためには喜びを自分のところに留めていてはいけません。
またその喜びの流れをくれた相手にだけ返すのではなく、より広く外に向けて広げていく、これが大切です。

その根底にあるのは自分自身の幸福感です。
人は自分が幸せだと感じられるほど人に優しくなれるものです。
上の記事の車掌さんのように、機嫌が悪いと乗客にも厳しく接してしまいます。

昔聞いた話です。
公衆電話ボックスにお金を置いておくと、それを見つけた人はラッキーだと感じ、そこを出た直後に困っている人がいたら、その人を手助けする率が通常よりも高くなるそうです。
気分がいい時には心にゆとりができ、人にも親切にできるのです。

 

まずは自分が幸せになること、気持ちを明るく持つことです。
今はエセ・コロナ禍で気分が沈みがちですが、こんな時こそ気持ちを切り換えて日々明るく過すことが大切です。

今はそのトレーニング期間であり、ここを明るく乗り越えられたなら、それ以降はもっと底上げされた人生か待っている、そう信じています。

先日たまたま視たYouTubeの動画にもそんな気持ちの切り替えのことが語られていました。

 

ここまで書いていてまた別のことが頭に浮びました。
それは他人のためと思ってしている行為でも、そこに自分の心を満たすための大きな願望が宿っている場合、結果として相手のためにならないこともあるということです。

自分はエニアグラムで示される性格特性はタイプ2「愛を与える人」です。

エニアグラムの九つの性格で、どれがよくてどれが悪いということはありません。
みなそれぞれに長所と短所があり、それを自覚して行動することが大切です。
 <90問回答式チェック | 日本エニアグラム学会>

自分は人に愛を与えることで喜びを感じるタイプです。
そしてその愛は自分の喜びのためにするのですから、金銭的見返りを重視しない代わりに、相手が喜んでくれなければ満足することができません。

このタイプの喜びは『相手の幸せ』ではなく『相手に幸せを与えて喜ぶ自分』にあり、自分の親切に対して相手が期待通りの喜びを感じてくれない場合、それが相手に対する怒りや不信感に変る場合があります。

こういうタイプは自分の心が満たされていない時、それを満たそうとするために相手に過剰に接触し、お節介、親切の押し売りをし、相手を自分の思うようにコントロールしようとします。
そしてその結果が思うように得られない場合、以前よりも互いの関係が悪くなることもあります。

 

これは今書いていて気づいたのですが、自分はこの特質を自覚していて、それを何とかしたいと願いトイレ掃除を熱心にしているのだと感じます。

公衆トイレの便器は人間ではないので口をきいてくれません。
素手で磨く便器はやっただけの効果が目の前に現われ、それ以上でもそれ以下でもありません。
トイレ掃除の目的は磨くという行為そのものであり、それに対する相手の評価ではありません。

誰か人間に対する行為も、その評価や見返りではなく、行為そのもの、自分の思いそのものにもっと意識を傾けたい、その願いがトイレ掃除に駆り立てている原点のように感じます。

『愛とは見返りを求めないこと』
自分はトイレ掃除を通してこれを学ぼうとしています。

 

これまでスピリチュアル系の本を山のように読んできました。
その中でもこの一冊は周りの複数の人たちに勧めた学び大きもので、自分も数回読み返しています。

ヘミシンクという音によって脳波を変調させて体験する異次元世界はとても興味深く、その前提として、著者の鈴木啓介氏の目の前に現われてくる様々な現象に対する真摯な姿勢が素晴らしく、鈴木氏の人柄とともにその異次元体験がひとつの大きな流れの中で自らの学びとなって深く心に入ってきます。

この本の中で一か所だけ付箋を付けたところがあります。
そこは鈴木氏の心の奥の「自己欺瞞」を指摘されたところであり、自分にも共通するものです。

鈴木氏は飢餓や虐待で苦しんでいる子どもたちを救いたいという願望を強く持っていて、そのことをヘミシンクのセミナーで縁を持ったチャネラーの友香さんに、その後のチャネリングの場で指摘されます。

「鈴木さんの『子供達を救いたい』という願望は、どなたからも賛同の得られる話だと思います。
しかしあなたは気づいた上でおっしゃっていますか?」

「気がつくって、何についてですか?」

「あなたは自分の個人的な問題の解消行為に他人を引き込もうとしているのです。
そしてそのことを潜在意識では分かっているはずです」

「!!」

「誰も他人のカルマに手を出してはいけません。
お互いの行為を尊重しなければいけないのです。
すべてを自分が背負い、自分の力で乗り越えないといけないのです」

そして鈴木氏は過去世で母親から見捨てられ、つらい思いをした幼かった当時の記憶を呼び戻し、自分の思いの源流を知ります。

 

自分は過去世の明確な記憶があるわけではありません。
けれどこの鈴木氏の体験を目にし、自分にも同様の過去世の体験があるということを強く感じます。
それがあるからこそインドの貧しい子どもたちの笑顔や悲しみに強い共感性を持ち、行動へと駆り立てられます。

その過去生からの記憶が具体的に何であるかを知ることは、心のブロック、囚われを解消するための大きな鍵となるでしょう。
けれどそれを知らないからそれを解消することができないということはありません。

何かそういうものがあった場合、『他人の幸せを望む行為』が『自分の願望を満たす行為』に強くつながり、本来の目的を見失うことになりかねません。

ですからそこをしっかりと見つめ、主体は相手であり行為そのものであることを忘れないでいる必要があり、そのトレーニングが自分にとってトイレ掃除であり、過去世からの囚われを手放すひとつの手段なのだということに今日気がつきました。

 

恩送りでも虐待防止でも難民救済でも、本当の意味で何が相手にとって真の救済につながる行為なのか、それを見つけるのは極めて難しいことです。
また厳密には不可能と言えるかもしれません。
『人間万事塞翁が馬』ですから・・・。

ただひとつ言えるのは、それを探る段階で私心や自らの願望が入ったり、心の底に不安や葛藤を抱えたままでは見る目を曇らせるだろうということです。

感情を手放す、今を生きる、宗教や哲学で古の賢者が説かれた真理はすべてに通じます。

 

取り留めのないことを書きました。
人生は迷いながら生きていくもの、今のエセ・コロナ禍は多くの人に迷いを与え、何かに気づくチャンスを与えてくれている、そう考えることもできるでしょう。

迷いも含め今しかできないこと、そこに人生を拓く大きなヒントがあるかもしれません。