無為自然と無秩序

生命系

生命とは何なのか、それを追い求めることは自らの天命のひとつです。

生命とは “すべて” です。
この時空、すべてのものが生命を持っています。
それが自らが得たひとつの結論です。

ただしそれは究極であって、科学の概念では生命あるものとないものとを分け、「生命体から生命系へ」にも書いたように、一般的にはこのように定義しています。

「自己と外界との境界」・・・自己と外界を隔てる膜を持つ
「エネルギーと物質の代謝」・・・外界とエネルギーのやり取りをし、自らのエネルギーに換える
「自己複製」・・・自らのコピーを作る
「恒常性」・・・自身の内部環境を一定に保つ

 

これ以外、もうひとつ生命の持つ特徴としてあげられるのが、すべてのものは乱雑な方向へと向かうという熱力学第二法則、エントロピーの法則に反するということ。
その中で常に秩序を保ち続けるというものです。

これは言葉としては難しいですが、理屈は至極単純です。
キレイなガラスのコップをたたき壊すことは極めて簡単ですが、それを元に戻すのはほぼ不可能です。

美しく咲いた花も水を絶やすと枯れてしまいますが、その枯れた花は元へと戻すことはできません、

熱湯の中に氷を入れるとすぐにぬるま湯になりますが、これを元の熱湯と氷の状態にするには膨大なエネルギーを要します。

部屋の窓を開け放していると風が入り、砂埃が床に積もり、書類などものが散乱してしまいまい、それが偶然によってより整理された状態になることはほぼあり得ません。

 

そんな中、最も身近な人体を見て分かるように、生命というものは実に精妙な仕組みによって営まれ、その秩序は生命尽きるまで崩れることはありません。

つまり生命とは、すべてが無秩序な方向へと向かう環境の中、それに反し、自らの中で秩序を保ち続けるという特質を持っています。

そしてそれをよりマクロ的に見ると、地球生命体ガイアは自らの上に多数の動植物を繁栄させる環境を保ち続けているというように、あるミクロ的に見た無秩序も、より大きなスケールの中では秩序のひとつとして組み込まれているのかもしれません。

 

タオを思い、そこで説かれている無為自然と無秩序というものについて考えてみました。

タオイズムと陰陽の関係のある儒教は礼節を重んじ、これは明らかに秩序を目指しています。

ではそれに対するタオの世界が無秩序かというとそうではありません。
無為自然とは好き勝手なことをするという意味ではなく、より自然に対し、より自分の最も奥深いところに対して正直に生きるということです。

これは人間の表面意識で考える秩序とは異なるので一見無秩序に思えますが、人間の真我とも呼ぶべき深いところでの秩序を保つということです。

 

己の意識の焦点をどこに置くのか。

これからの時代は個々の違いを捉える生命体から、その大元に意識を向ける生命系の時代へと向かっていきます。

生命系

この生命系こそが「Everything Great」です。

そしてこの流れを受け、これからはよりタオイズムに目が向けられ、深い真我に基づく無為自然な生き方が尊ばれるようになってくるでしょう。

自分を愛し、自分に正直に生きていきましょう。