イニシエーション<2>

インシエーション<2>

イニシエーション のつづきです。

宗教という言葉は、今の日本では否定的な意味合いの方が強くなっています。

何かの宗教を熱心に信仰している人は、真面目、道徳的という裏に、融通の利かない偏狭な人、他の価値観をなかなか受け入れないといったイメージが付いてくることがあります。
宗教的、宗教みたい、宗教じみている、宗教臭い、・・・宗教を否定的意味合いで用いた言葉は数多くあります。

宗教とは何でしょうか。
まず思い浮かぶのが組織、施設を持った教団であり、経典で示された教義であり、いずれもしっかりとした形を持つものです。

この形があって枠にはめられたものという陽性、求心の原理が、これまでの陽の時代には必要であり、逆にこれからの陰の時代、東洋の時代にはそぐわないので、マイナス面が大きく露呈してきています。

それでも日本以外の国ではまともな人間は何かしっかりとした宗教を持っているもの、宗教を持つことはエリートの条件とされているところも少なくありません。

ではなぜ今の日本では宗教を否定する面が強いのか、それには二つの理由があると考えます。
ひとつは、日本は東洋であり、西洋原理の特徴が浮き出ているということ。
もうひとつは、八百万の神というように、日本人はその心の根底に万物に対する畏敬の念があり、特定の宗教を持たないことが無神論、非道徳的とはつながらない高い精神性を持っているからです。

 

陰と陽、どちらにもいい面があります。

「好き勝手、自由にやらせてくれるから楽ちんだ」これは陰のメリット、
「定まったルールがあり、それに従っていればいいので助かります」これは陽のメリットです。

これまでの陽の時代は、宗教はこの陽の原理に則って自らの教えを拡大してきました。
この時空にあるものはすべて生命を持っています。
そして生命あるものは人間もそうであるように、その生命を存続し、継承させていこうとします。
ですから必然的に時代の理に則したあり方となっていくのです。

陽性は求心力、形あるものを示し、その形に則したものが善であり、幸せになり天国に行けると説き、そしてその逆は・・・。

 

この時空の基本原理は相対です。
そこにおける人間の理想の生き方は、厳密に言うと本来存在しません。
なぜならば、理想という定まった絶対的なものがないからです。

けれど仮に理想的な生き方があるとしたならば、それはその時代、その国や地域の民族性、気候風土、そういった周りの環境すべてに大きく影響を受けるはずであり、多種多様な理想がある、これが共生関係を保つ相対の原理です。

しかしこの中で強い陽性の求心力を保つには、この陰性の相対原理を否定する必要があり、自らを絶対としなければ、己の存在という生命を保つことができません。

かくして世界各地に異なった神名、教えの宗教が誕生し、そのほとんどすべてが自らを唯一絶対としています。

 

禅問答のようですが、この時空は相対の世界であっても、相対だけがすべてではありません。
相対に相対(あいたい)するものとして絶対の存在を欠かすことができません。

この時空は陰と陽、相対と絶対、表と裏で成り立っています。
陰、相対、表だけではありません。

その陽、裏の原理の象徴のひとつとしてあるのが西洋で栄えたキリスト教で、一神教で神と人間を別のものとし、神とその教えを絶対視し、男性優位で男のアダムの肋骨から女のイブが生まれたと、男性原初の理を説いています。
けれどそれは発生学で明らかなように、性の発現は女性からという事実と反しています。

これも陰陽の裏の理合いである陽、男性、西洋の原理を、陰の裏である陽の時代に、相対の裏である絶対でもって説くために必要なことであり、これは誤りではなく方便であると捉えるのが妥当だと考えます。

真理はひとつであっても相対であり、その説き方は陰陽織り交ぜた多様なもので、どんな時代でもそのバランスは変っても、すべてのものに存在意義があるというのが相対の原理です。

 

陽性は求心力、収縮の原理であり、小さくまとまったものが多数生まれ、それらがすべて分離しています。

西洋医学が人間の身体をすべてバラバラにして専門分野を作るのに対し、東洋医学が心身一如ですべてのバランスの下でとらえ、西洋医学も徐々に統合医療の方向に向かっているのを見ると、東洋と西洋の理合い、今の時代の流れがよく分かります。

分離、ミクロ世界を旨とする西洋の原理は、神と人間を分けて考える一神的なもの、対する東洋はすべてを統合、融合し、人間を含めた万物に霊性と神性、仏性を見る多神教的ととらえることができます。

けれどひとつひとつの宗教を見てみると、一神教と多神教は完全に分離したものではなく、互いの要素を多分に含んだものが多く、完全にニ極分化することはできません。

 

これまで何度も書いてきましたが、村上和雄先生の唱えられていた「サムシンググレート」は、自分の外に創造主としての偉大な存在を観じとる一神教的考え方です。
これは村上先生が素晴らしい天理教の教会で生を受け、教えを学び、心の中に“天理王命”という天理教で説く唯一神が息づいておられるのですから、その概念に応じて自らの外に偉大なる生命原理を見られるのは自然なことです。

けれどこれも相対の世界で、サムシンググレートに対するもうひとつの概念は、自らに神性を見る、これは自分が勝手に作った言葉ですが、「エブリシンググレード」です。

Everything Great

このホームページをご覧の方ならよくご理解いただけると思いますが、時代は確実に西洋から東洋、サムシンググレートからエブリシンググレードへと推移しています。

念のために書きますが、これはどちらがいい悪いではなく、価値観の主軸がどちらに傾くかということです。

 

陽から陰、西洋から東洋、科学から生命観へ、今はまさにその移ろいゆく端境期です。
科学に対する言葉として生命観が最適かどうか分かりませんが、それが明確に示せないところにこれまでの科学至上主義が長く続いてきた歴史を感じます。

すべてを統合したひとつの概念、やはりそれを表す最適なものは生命しかないのではと考えます。
生命の仕組み、成り立ちは完璧でありすべてです。

前項で紹介した十輝(TOKI)くんのMVを視て、生命の偉大さと尊厳をあらためて感じました。
このMVはとてつもないですね。
言葉で賞賛できるレベルを超えています・・・。

このMVを視て「冬のソナタ」を思い出しました。
あの歴史的評価を受けた韓国ドラマの魅力は、主役のペ・ヨンジュン演じるジュンサンが事故で友人の間では死んだこととなり、ラストでは恋人をかばって事故に遭い、後に光を失う。
この二度の擬似的死を経ることにより、死という神聖なものが主役のペ・ヨンジュンのイメージに重なり、まるで神格化された「ヨン様」という呼称が当たり前のようになりました。

冬のソナタ

誕生と死、人生の両端であるこの二つのものは、尊厳ある神聖なものとしては同じ意味を持ちます。

 

相対の世界はすべてのものが相対する要素を持ち、一神教も多神教も、簡単にこういった属性があると割り切って表現することはできません。

十輝くんのお母様から、先日突然一年振りぐらいに連絡をいただきました。
このホームページの「エセ・コロナ禍の真実」を読んでくださっているようで、それに共感してくださり、このたびのコロナ騒動の真実を多くの人に伝え、ワクチンを接種しないよう活動しておられます。

お母様はとても敬虔なクリスチャンで、無教会主義というのでしょうか、十輝くんは子供の頃から学校に通わず、クリスチャンファミリーで共同生活し、そこでのホームスクールという形で成長してきました。
だからこそあんなに純粋な魂が生まれるのだと、十輝くんを見ていてそう感じます。

その後お母様にクリスチャンの会合に呼んでいただき、コロナについて書いたレポートをみなさんに配らせていただきました。

宗教は組織化されたものと書きましたが、そこにも例外があり、形に囚われていないからこそ自由な発想ができ、コロナという現在最も大きな社会問題の真実に目が向きやすいのだと思います。

キリストによる癒し

10年前の十輝くんとの思い出です。

 

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