『諸行無常』
この時空にあるモノは常に生々流転し、永遠に同じ形を留めているモノはありません。
すべては時とともに形を変え、循環し、大小様々な波を形作っています。
地球上の四季は地球の公転周期とシンクロ(同期)し、南北半球の季節が一年の逆相周期で入れ換わっています。
それに対して文明は東西両半球が二つの極となり、地球の歳差周期25776年の16分の1、1611年逆相周期を描いています。
文明法則史学を提唱された村山節先生は、東西両半球の文明の興亡が遺伝子DNAと同じ構造であることから、『螺旋進化する世界文明』という言葉を遺されました。
これは真理であり、この言葉の意味を世界中の人たちに知っていただくことが、自分を含め、この教えを受けた者たちの使命だと考えています。
この時空の基本法則のひとつがフラクタル(自己相似形)であり、季節や文明が大きな波を描くのと同様に、そこに暮らす人間もまた一生の内で大きな波を何度も繰り返しています。
そのひとつがバイオリズムと呼ばれる身体、感情、知性のリズムです。
またもっと分かりやすいのは、一日の中での寝て起きてを繰り返す睡眠と覚醒のリズムでしょう。
地球が公転、自転のリズムとともに四季と昼夜を繰り返しているように、人間の心身も様々なリズムによって動かされています。
確実なことは分かりませんが、四柱推命という占いでは運命リズムは12年サイクルで繰り返すとされていて、自分もそれを身を以て体感したことがあるので、あながち間違いではないように感じます。
また九星気学では九年サイクルのリズムが唱えられていて、そういったものもあるのかもしれません。
波というのは単一周波数によるキレイな正弦波(サインカーブ)ばかりではなく、自然界にあるほとんどすべてのものは様々な周波数を複合した波なので、いろんなリズムが同時に成り立つのは自然なことです。
そんな多様なリズムの中で、最も気になるのがシンクロ、いわゆる共時性現象と呼ばれるものが頻繁に起こる時期とそうでない時期があり、このリズムがどうなっているのかということです。
経験的に、シンクロが多発する時期はおおむね高調期であり、何か自分の中で転機を促そうとする動きがある時が多いようです。
そしてその中に何らかの意味を感じ取ることが多く、サインと等しいものだと感じます。
過去人生の大転換を促すような人との出会いは、何か奇妙な偶然によって導かれたことが多くあり、
「これは単なる偶然ではなく、お前にとって大切な出会いである」
ということを示してくれているように感じます。
これは明らかなるサインです。
そんな大きなことではなくても、ふと考えた小さなことがその後目の前に現れることが多発すると、それは、
「今歩もうとしている方向、選択に間違いがない」
ということを教えてくれているのだと感じ、とても勇気づけられます。
人生の歩みをひとつの道にたとえるならば、その途中で起こる意味ある偶然シンクロは、道端に咲く花のようなもの、心を和ませ励ましてくれるものだと考えています。
ここ数日も小さなシンクロがありました。
昨日は、年内にどうしても行きたいところがあり、少し家から距離があるものの、午後から出かけようと準備をしているところにその近くの家の人から来て欲しいと連絡があり、あまりのタイミングのよさに驚き、そして嬉しくなりました。
その前日の水曜日、知り合いからいただいた蕎麦を茹でました。
以前出雲地方に住んでいたので蕎麦は大好物です。
いただいた蕎麦は一束100グラムのものが三束入っていて、一食二束が適量とは思ったもののの、大食漢の自分には100グラムだけ残っても中途半端なので、少し多いかなと思いながらも300グラムを一度に茹でました。
さすがになかなか食べても食べても減らないといった感じでしたが、なんとか美味しく完食して満足しました。
やはり200グラムが適量ですね。
そんなことを笑いながらいろんな人に話をしていたら、二日後の今日金曜日、またまた蕎麦をいただいてしまいました。
前回と同じ棒状の乾麺で、袋には内容量200グラムと書かれています。
前回は温かいもの、今日は冷やし蕎麦としていただきました。
200グラムで腹八分目、味わい深くて最高でした。
これまでの人生で蕎麦をいただいたことなど何度もありません。
それがまるで誰かが聞いていたかのように適量の蕎麦をいただき、偶然、シンクロ、引き寄せを感じました。
今は自分の中で心構えをあらたにして前に進もうとしている時期、だからこそ心の深い部分がそれを励まそう、今のまま前に進めようとしてシンクロを起こしてくれているのだと感じます。
そしてそれを本当に有り難いことだと感じ、着実に進んでいけば、これからもしばらくシンクロは続いていくものと思います。
けれどもっと深い意味から考えてみると、自分の外の世界はすべて自分が創造しているのですから、すべての出来事は自分の心と同期したシンクロであると考えることができます。
もし蕎麦が食べたいと思っていた時にカレーライスが現れても、それはシンクロが起きなかったのではなく、自分の表面意識と心の深い部分が通じ合っていなかった、その二つがシンクロしていなかったということであり、心の最も深い部分は常に現実世界とシンクロしていると考えるべきです。
シンクロは「意味ある偶然」とも呼ばれます。
意味とは解釈の上にあるものです。
まったく予期せぬ嫌なことが起こったとしても、それがなぜ起こったのかを懸命に解釈し、いかに自分にとってプラスにしていくかを考え、実際にそうしていったなら、それは自分にとって立派な意味のあるものとなります。
意味とは客観的存在としてあるものではなく、自分がどう感じ取って活かしていくかという創り上げていくものです。
そう自分の中で得心し、実践していけるようになるためにも、浮き沈みある人生の波の中で様々なことを学び、経験していくのでしょう。
自身の例で言うと、日本にいてインドに行き、また日本にいてまた再びインドへということを何度も繰り返してきたからこそそこから学びがあり、環境、立場の変化というのは、自身を見つめる眼を養っていくためにも不可欠です。
道端に咲く花は喜びを与え、また時には道標ともなる存在です。
花を愛で、時には水を与えながら歩んでいきます。
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