少し前にシンクロが多発していると書きました。
あれから年をまたぎ、今もその流れは続いています。
シンクロは一般的にいい出来事である場合が多いのですが、身の回りに起こることはすべてが必然、すべてが自らが引き寄せたものであると考えたなら、本来はすべてがシンクロ(同期したもの)であり、多くの人がシンクロだと語るものは、何かとの同期の仕方、因果関係が分かりやすいものをとらえ、そう言っているのです。
頭で思い浮かべたことが目の前に現れ、最高のタイミングで物事が運ぶ、そんなシンクロは目に見えないものが自分の味方をしてくれているようでとても嬉しく感じます。
先日もあるところを訪ねた時、
「今ちょうど困ったことがあって、サカイさんに聞いてみようと話をしていたところだったんよ~」
と言われ、そこに行くべきかどうか迷いながら訪ねたので、自分の判断が間違っていなかったことが確認できたようで嬉しく思いました。
概して「シンクロだ!」と感じることは嬉しいことが多いものの、シンクロが多く起こるからと言って、起こってくるすべての出来事がいいことばかりとは限りません。
「タイミングよくいいことが起こった」と感じるシンクロもあれば、逆に悪いタイミングでいやなことが起こって気分が悪くなることもまたあります。
これはいいことをしているからいいシンクロが起こり、悪いことをしていたら悪いシンクロが起こるというのではないように感じます。
つい数日前のこと、あるビミョーな関係のところと、コロナの影響で予定が変わったことが原因で、少し気まずいことになりました。
ビミョーな関係というのは一触即発ということ、少しのことで何が起こっても不思議ではありません。
最近はアメリカ大統領選のクーデター規模の大規模不正と日本でのエセ・コロナ禍蔓延の影響を受け、日常の気分は若干低調気味で安定しています。
まだまだ修行が足りません・・・。
そんな気分の時に愉快でないことが身近に起こると普段より一層ブルーな気持ちになり、その気持ちをなかなか解消することができません。
『いいことよりも悪い出来事からの方が学びが大きい』
このことは頭では分かっていても、実践でそれを納得させるのはなかなか大変です。
こんな時には基本に立ち返ることが大切です。
嫌な感情を手放そう、そう考え、セドナメソッドを久し振りに実践することにしました。
今回は本格的にと思い、テキストの最初のページから丁寧に読み進めました。
最初の方の章を読むのは五回目ぐらいだと思います。
それでもやはり時が経てば新たに感じることがあり、とても有益でした。
今回ラインマーカーで線を引いたのはこんなところです。
恐れの感情に抵抗するだけではなくただ迎え入れるだけで、呼吸の速さやふるえといった身体的反応も消え、頭の中も静かになったのでした。
セドナメソッドと言えば「感情を手放す」というのがイメージの中では100%で、こういった「感情を迎え入れる」という記述があったことは意識から消えていました。
できる限りその感情の中に入ってリラックスします。
そして自分にこう尋ねます。
「この感情の核心へと入っていける?」
または「この感情に潜り込める?」。
感情を迎え入れるだけではなくより深く入り込む、これはこれまで意識してしたことがなかったので、これから継続してやってみようと思います。
その後も第3章に入り、最もオーソドックスな九つの感情を手放していきました。
無気力、悲しみ、恐れ、渇望、怒り、誇り、そして勇気、受容、平安といったプラスの感情も。
今回はかなり時間をかけて行っているので、まだ九つの感情の最後までは至っていません。
これまで何度も感情を手放してきたはずですが、やはり部屋のホコリと同じく知らぬ間に積もっているものです。
その感情を味わいながら掘り起こしていくといくらでもいろんな思いが浮んできて、それをひとつずつ手放していくのは本当に心地いいものです。
心地いいものですが、それを日々の習慣としてキチンとできていないのは人間としての弱さです。
椅子にリラックスして腰掛け、膝の上に置いた手にはペン(いつもグリーンのラインマーカー)を握り、そのペンに手放すべき感情を移していきます。
感情によって簡単にイメージできるものもあればそうでないものもあり、今回は、例えばアメリカ大統領選の不正に対する憤りなどは、ペンを握る肩から手のひらにかけての右腕全体がジンジンと振動しているのが感じられるほどリアルに感情が流れ、塊をイメージできました。
そんな感情を手放すワークを続けていくと、気持ちがどんどん軽く、明るくなり、否定的な考えに埋もれて落ち込むことなく、肯定的な面に意識が向いてくるのが感じられます。
やっぱりセドナメソッドはすごいです!!
そんな心持ちになり、ビミョーだった人への思いも変わっていきました。
少し気まずいことになった後、相手から誠意を感じられない対応をされ、そのことが強く頭に残っていましたが、その憤りのような感情と「○○すべきだ」という相手への期待が消え、何も思わない期待もしないニュートラルな心の状態になったのです。
期待するものがなくなるととても楽です。
またその後相手からアクセスがあった時、それまでのマイナス感情は消え去っていて、ただその時の相手の行為のいい面だけを見て、自分としては100%の対応を取ることができました。
このニュートラルな状態、感覚、これがセドナメソッドの目指すものなのでしょう。
『無為自然』、その一端を感じ取ることができました。
数ヶ月前、その相手の方からひとつの頼まれ事を受けていました。
それは「その人にとっての大切な思い出を活かす」ための作業で、それをするためにはパソコンスキルとともにある特別な機材が必要となります。
たまたま自分の知り合いがその機材を持っていたので、「たぶんできると思うのでやってあげましょう」と気軽に言ったのですが、あいにく知り合いの機材が故障中だということが分かり、ずっと保留になったままでした。
ところが、二日前にその知り合いから「新しい機械を買ったのでいつでも来てください」と声がかかり、早速その日にお伺いし、半日かけて無事作業を終えることができました。
それを頼んだ相手には別の知り合い経由で依頼品が渡ることになっていて、まだ相手の反応は分かりません。
けれどとても貴重な思い出のものなので、すごく喜んでくれるものと思います。
このタイミングで相手の喜ぶことができる、これはきっと自分の心がその人に対してニュートラルになったことに対してシンクロ(同期)して起こった出来事なのだと感じます。
これはもちろん科学的に実証できるものではありませんが、もし自分の心の中に相手へのわだかまりを抱いたままだったら、こんな相手を喜ばす行為の種は芽生えなかったのではないでしょうか。
そう強く信じます。
これはまたサインなのだと思います。
『心は常にニュートラルであるべきである』
『悪いと思えることほど学びが大きい』
『悪いと思えることほど、その対処の仕方で結果は大きく変わってくる』
こういったことを学びたい、感じ取りたいと自分の魂が願い、この一連の流れを引き寄せ、最後に結果をサインとして示してくれたのだと感じます。
すべてのことは必然であり学びです。
そのすべての中でもいいと感じる出来事は、その後の対処の仕方は比較的誰でも差はありません。
けれど悪いと感じられることは、怒りや恨みに駆られて自暴自棄になったり、逆に『艱難辛苦汝を珠にす』という言葉があるように成長の糧にしたりと、その人その時によって対応、活かし方に極めて大きな差が生まれます。
だからこそ、悪い出来事の方が学びが大きく、自分がどんな状態であったとしても、時として自らがそういったことを引き寄せることがあるのです。
すべては自らが自らの意志によって引き寄せたもの、だからこそそれを受け入れ、味わい尽くし、そこから卒業していかなければなりません。
その卒業の最終段階が、仏教やヒンズー教で言う輪廻の鎖から解き放たれた解脱なのでしょう。
自分は今、セドナメソッドとともに何度目かの心の旅をしています。
旅のゴールはまだ見えませんが、旅は楽しい方がいいですね。
それを楽しいものにするかどうか、それはすべて自分の心が決めています。
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