イニシエーション<3>

光

イニシエーション<2> のつづきです。

これから始まる陰の時代は心の時代、人間が真の霊性に目覚める時代です。
だからこそ心のあり方を説く宗教にその変革の波が大きく現われ、これからそれが明確になってくるでしょう。

ジョハリの窓という自己分析の手法があります。

ジョハリの窓

上の図のように、自分が分かっている部分とそうでない部分、他人に分かっている部分とそうでない部分、この四つを2×2の四つのマス目(窓)に分けて考えます。

これは人間を分析するだけではなく、例えば地方で事業を成功させている人は、その地元の人であっても一度はその土地を離れ、その土地を客観的に見ることができる人が多いというようなことにも当てはまります。

自分の精神世界の原点は十代最後の頃に出合った天理教で、一時は真剣に天理教の布教師になることを誓い、その後そこから離れながらも自分なりの「神の道」を模索し、だからこそ客観的に天理教のことが、そして宗教のことがよく分かります。

 

神の道を誓ってから四十年、そのことによって「神因縁」が生じ、これまで数多くの精神世界のリーダーや超能力を持つ方たちとの不思議なご縁をいただき、とても親しい関係を保ってきました。
そこには宗教家の方もおられ、原点である天理教の先生とも今も親しく関わらせていただいています。

自分の原点は天理教であり、それを導いてくださった先生が一人の宗教家としてとても尊敬できる方であることは誇りです。

けれどその先生のことをあまり詳しく書かないのは、今の自分の考え方は天理教の世界からは大きく離れ、真面目な宗教家である先生にはとても理解していただけないであろうということ。
そしてもうひとつは、先生とのお付き合いは半世紀近く前の自分が中学生の時以来であり、ここで書いていることを読まれるのは恥ずかしい、そんな個人的理由です。

 

このたびのエセ・コロナ禍の疑惑の原点は極めて単純、簡単なところにあります。
今の時点で、コロナウイルスは武漢の研究所で作られたという“陰謀論”が正しいものだという説が急浮上しています。
そしてウイルスが人工的に作られたものであるという痕跡が、遺伝子配列の中の0.1%以下の微細なところに痕跡として残っているそうです。

そんな細かいところは一般人にはとうてい調べようがなく、また理解もできませんが、本当の疑惑の「本質」は極めてシンプルです。

なぜ感染症の診断に適さないPCR検査をコロナの診断に世界中が絶対的なものとして使っているのか。

なぜ偽陽性が大量に発生するPCR検査を用い、陽性とされたPCR陽性者を感染者と偽り続けるのか。

政府、マスコミによる“コロナ煽り”はこの「極めて大きなウソ」の上に成り立っていて、ウソの上にどんどん都合のいい「切り取り情報」を積み重ねることにより、根底にある大嘘を意識の外に追い出そうとしています。

この大嘘があるからこそ、本来ワクチンではない、動物実験で2年以内にすべての動物が死に、現在はまだ治験中で、過去大きな危険性が指摘されて承認されてこなかった20年の歴史のある『遺伝子組み換え注射』を、世界中の人にワクチンと称して打たそうという策略が成り立つのです。

これと宗教を比較するのは大変失礼ではありますが、世の中の仕組みはこんなあやふやな基盤の上に成り立っているものが多々あって、それがこれまでは見逃されてきましたが、今という大転換機の時を迎え、そこをなおざりにはできなくなってきました。
それが通過儀礼であるイニシエーションであり禊(みそぎ)です。

 

宗教というのは本来は形のない“教え”そのものであっても、その教えを継承していくためには陽の時代には形あるものを造る必要があり、そこにどうしても矛盾が生じるのは致し方ないことです。

そしてその矛盾が今という時代の大転換期を迎えて大きく現われるようになり、イニシエーションを経て新たな形へと変容することが求められています。

つまりこれはさなぎから蝶になるようなものです。
さなぎを包んでいた古い衣、形を脱ぎ捨て、完全に新たなる形態として生まれ変わるのです。

これは自動車がガソリンエンジンから電気モーターに換わったり、WindowsのOSがバージョンアップしたりCPUの性能が上がるといった表面的なものではありません。
もっともっとより本質的なものであり、だからこそ中途半端な状態というのはあり得ず、これまで何度も書いてきたように、このたびの文明大転換期後は素晴らしい持続可能な社会を築き上げるか、それとも失敗して人類滅亡への道を歩むのか、この二つにひとつだと考えます。

太古に偉大な文明を築いていたとされるムー、アトランティスが滅びたのは、この大転換期を乗り越えられなかったことが原因だと考えられ、当時生を受けていた多くの魂が、現代に再チャレンジで再生しているそうです。

 

19歳当時、自分が天理教に心惹かれたのは、献身的に人の幸せを願う先生の生き様に感動し、自分もそんな生き方をしたいと強く願ったからです。
これは天理教に限らずどのような宗教でも、特に末端で活動しておられる方は同じではないでしょうか。
この純粋な心が宗教の本質であると感じます。

天理教は、イザナギ、イザナミといった日本最古の神を含めた十柱の神名でこの世の様々な理合いを説き、元となる創造主は天理王命(てんりおうのみこと)であって、日本の古くからの神道の要素を含んだ一神教です。

教理の根本に『二つ一つが天の理』『人を助けて我が身助かる』といった教えがあり、これは陰陽論、因果律そのもので、相対の世界を律する絶対法則です。
これを含めた相対的、東洋的真理は「陰と陽」にまとめて書いています。

二つ一つが天の理、これは陰陽、共生、相対を表す真理です。
『歌は世につれ世は歌につれ』『郷に入っては郷に従え』こんな諺も相対を表しています。

けれど絶対優位の陽の時代にはこれでは人の心を惹きつけることができず、教えと教団のあり方に陰と陽の矛盾が生じ、その矛盾を持ちながらこれまで発展してきました。

宗教の世界は一神教と多神教、この『二つ一つ』の価値観の調和が陰陽のバランスです。
けれど天理教では天理王命様が絶対で、それに相対するものはなく、多神教の価値観は認められません。

天理教の経典は、江戸時代に主婦であった教祖中山みきを媒介とした神の言葉で書かれていて、それは当時の奈良で暮らす庶民に分かりやすい大和言葉です。
これはそれがその当時、そこの人々に最も受け入れられやすい形であり、絶対性、普遍性を捨てたがゆえに認められた『二つ一つ』の形です。

けれど『その当時の二つ一つの形』を今も絶対として頑なに守っていて、それを守ることが信心深く尊い行いであると教団の中ではなっていますが、それは外から見ると強い違和感があります。
生活習慣がまったく異なる遠い外国の宗教や風習を、これが絶対だから日本でも受け入れろと言われても受け入れ難いのと同じです。

天理教とその外の世界、二つのうちの一つである外の世界が変わったのですから、もう一つの天理教も変わらなければ『二つ一つ』とはなりません。

天理教の教会本部という神殿は近鉄、JRの天理駅から古い商店街を通って15分ほどのところにあり、数年前、その商店街のアーケードに
『宗教って、その土地の文化なんだね』
という文言が書かれた大きなバナーが吊り下がっていました。
それは天理大学によって掲示されたものです。

この言葉は真理です。
その宗教が生まれた土地、国、時代、文化、気候、民族、・・・すべてのものに合わせ、噛み砕いた相対の形で提示するからそれは受け入れられます。
本来宗教とは土着的なものであり、世界どこの宗教を見ても、その中にはそれが生まれた時と場所の背景を色濃く感じ取ることができます。

それでもその相対性は隠し、「これが絶対だ」という形にしているのが今の宗教であり、同一宗教内ではそれで整合性が取れても、外の宗教や社会とは矛盾が生じます。

 

天理教の中に『二つ一つが天の理』『人を助けて我が身助かる』という相対的真理の教えがあるように、すべての宗教の中に相対的なものと絶対的なものが混在しています。

絶対的、陽性のものは求心力であり、対する相対は拡散で、拡散では形が崩れていってしまうのは必然です。
ある教えをそれぞれ異なる土地、時代に合わせて変化させようとしたならば、その相対要素は無限にあり、水の入ったコップに一滴のインクを垂らしたように雲散霧消してしまいます。
前々項で水の理を説くブルース・リーの動画を載せましたが、水は柔軟ですべてのものを溶け合わせることができる代わりに自らの形をしっかりと保つことは苦手です。

これまでの陽の時代は、陰、相対、拡散を主体としたならば、ひとつの教えを広めることができなかったのです。

 

これまでの宗教の中では禅などは相対的真理に近いものだと考えます。
また他にも思いつくものはいくつかありますが、それらは東洋医学が西洋医学より一段低く見られていたように、これまでは宗教の主流とはなり得ませんでした。

そしてそこには絶対性を重んじる他宗教と同じく、相対的真理に近くて素晴らしければ素晴らしいほど、それに関わる人はそれを絶対としてしまう危険性があります。

30年前に一年間真剣に関わった神智学で、ある覚者の言葉が印象に残っています。
覚者とは悟りを開き、輪廻の鎖から解き放たれた肉体を持たない存在です。

『私を追い求めるな。追い求めれば追い求めるほど私から遠ざかるであろう』

狂信的なことをカルトと言います。
本来“カルト教団”という言葉は存在しないと考えます。
それはカルト性はその教団にあるのではなく、それと関わるその人の心の中に存在するからです。

仏教でもキリスト教でも、広く認められている一般的な宗教でも、それを絶対として他を受け付けない思考の人はカルトです。

当人は真理を求めて懸命になっているつもりでも、自分の外に“絶対”を求めてしまっては、真理から遠ざかるということ、相対が律するこの時空において、絶対のものは「自分のうち」にしかないということです。
どんな素晴らしいものでも、それを外に追い求めてはいけません。

陰陽の順序の理合いを持ったこの時空では、究極の真理は相対の中にあり、その相対を説く教えとも、自らが相対的に関わらなければいけないのです。

 

信仰熱心なのが善とは限りません。
それは今自分が関わっているもの以外に対して目を閉ざしてしまうからです。

どのような宗教でも神仏への崇拝儀式を重んじます。
天理教だったら朝夕の“お勤め”、インドのキリスト教の児童養護施設では、子ともたちと一緒に礼拝堂で聖書を読んだり賛美歌を歌います。
南インドとのご縁を作ってくださった日本山妙法寺では、朝夕の南無妙法蓮華経というお題目を唱える時間が一日四時間以上もあります。

それ以外にも神具、仏具のお手入や掃除や学びといったその宗教に関わる作務、教学があり、他の世界と触れる時間が極めて限られ、どうしてもその世界にどっぷりとはまってしまうようになっています。
これが宗教団体の持つ求心力であり、これは生命を持つ宗教が自らの生命を永らえさすため必然的に生まれた様式ととらえることができます。
もちろんこれひとつが理由のすべてではありませんが、そういう側面もあるということです。

相対の世界ですから何事にもメリットとデメリットがあります。
あまり深くひとつのものに入り込むと他が見えなくなり、それが積み重なるとそれが重荷となり、そこから脱せられなくなります。

長年仏教を信仰してきた人が、ある時キリスト教の教えを聞いて心惹かれても、そこで宗旨替えをすると過去の長い自分の歴史を否定するようで、素直にそれを受け入れることはできないでしょう。
ある教団では合同結婚式で上から指名された信者同士が結婚するそうです。
それで結婚し家庭を作り、その信仰を永遠に保つならば問題ありませんが、もし将来どちらかの気が変ってしまったらとても不幸です。
またそうならないように、内面で自分の本当の気持ちを押し殺さなければならないとしたら、それはそれでまた別の苦しみがあります。

逆にメリットは、強い求心力で人を引きつけるからこそどんな人をも導けるということです。
自分が天理教と最初に関わった頃は、先生はまったくゼロ、底辺から布教をスタートさせたので、信者さんとして集まってくる人たちも社会の底辺を生きる人が多くおられました。
誰よりもケンカっぱやい人、小児麻痺で色情狂の人、元やくざで半身不随の人、当時若かった自分はそんな人たちと関わるのが楽しかったりもしました。

宗教というのは心の病院、立派な病院ほど重症の患者さんが集まる、その当時先生が言われたことは真実だと思います。

そういった人たちをも導けるのは、やはり強い絶対性、求心力があるからです。
これが陽の時代の理合いでありメリットです。

子どもたちの行く学校でも、幼稚園、小学校は固定化されたクラス、カリキュラム、校則といった強い求心力の下で指導を受け、高校、大学と上の学校へ進むたびに大きな自主性が与えられます。

ですから一概に何がいいと評価することはできません。
絶対と相対、この二つも周りの条件に左右される相対の関係です。

 

周りの環境が極めて大きく変化し、古い時代の価値観の悪い面が露呈してきている今、この心を律する宗教のあり方が大きく変わろうとしています。
また変わらなければ、これから真の心の時代を迎えることはできません。

形のないスピリチュアルムーブメントといったものが今様々な形で花開こうとしています。
その自由で囚われのない動きを見ていると、まさにこれからの心の時代を反映したものだと感じます。

けれど今はまだ過渡期です。
これまで、過去のものとなろうとする旧来の宗教と関わってきた者とすると、まだまだ既存の宗教にも大きな役割があると感じます。

今のスピリチュアリズムは個々人の自由に任せる部分が大きいがゆえ、人間のエゴが大きく出ているものが多いように見受けられます。
もちろんすべてではありませんが、心、スピリットではなくマインドを操ることにより、精神的喜びではなく物欲にフォーカスを当てたものが多々あり、それはとても危険なことです。

心の不思議さを知るという意味ではこの過渡期に必要なものではありますが、そこに長く留まっていては目の前に迫る次のステップへと進むことができません。

『真の自分の生き方、心のあり方とはどうあるべきか』
何か宗教を持っておられる方はこの思いが強く、まだ人間は完全に自由を謳歌できるまでは成人しておらず、陽の求心力の必要性がいまだ強くあるように感じます。

 

それでも今の時代、エセ・コロナ禍のように人類を惑わす課題が次々と現われてきて、これまではなかった新たな社会情勢変化に対応することが大きな学びであり、そこで得るものは、過去宗教儀式で得たものと代わらない価値あるものだと感じています。

これまでの宗教という心の学びは出家をしたり、特定の時間を儀式という形に費やす日常とは切り離された場が学びの中心であったのが、これからの心の時代、融合の時代は、日常の中にこそ深い真理を探る在家の時代、日々の心の持ち方の中に真理を見いだす時代になったのではないかと感じます。

自分自身のことを言うならば、若い頃天理教を熱心にしていた延長で今の公衆トイレの掃除や様々なボランテイア、エセ・コロナ禍の追求があり、形は大きく変っても、自分の心の持ち方はまったく変わっていません。

さらに個人的にことを述べれば、二十歳の時に父の胃ガンをキッカケに、神の道へと進むこと、寿命を半分神に捧げることを神前で誓い、今から11年前の五十歳の年に二度の死に目に遭い、今は役割があって生かされているという自覚が強くあります。
そして実際に現在生を与えていただいているということは、今の生き方が神の道に反していないのだと信じていて、もしそこから外れたら、瞬時に命を取られるであろう覚悟は常に持っています。

 

心の時代は物欲をすべて捨て、原始時代のような暮らしをすることではありません。
ただしそうなってもいいという思いは必要です。
つまりモノへの執着を手放すということ、手放すからこそ手に入るということ、心の時代の真の喜びは自らの心の中にこそあるということです。
自分はそれを7年前、「関空での奇跡」という形で体感しました。

人類がこの大転換期のイニシエーションを乗り越え、どのような文明、文化を築いていくのか、その具体的なことは分かりません。
また分からないからこそ、そこに向かっていくことに価値があります。

先日知り合いから臨死体験や生まれ変わりのことについて書かれた厚い本をお借りし、昨日二日かけて読み終えました。
1994年出版の「霊性の目覚め」という少し古い本です。

ここには国内外の数多くの神秘体験が事例として載っていて、自分の過去の体外離脱や神秘体験を思い出し、原点を振り返るいい機会となりました。

ここに書かれている一節が、宗教やスピリチュアリズムの目指すべきものを示唆しているように感じます。

臨死体験が我々に教えていることは、日常生活の中で自分に出来る範囲内で、「愛」や「思いやりの心」を持つことである。
同じことが宗教や霊性の面でも言える。
臨死体験をすると、ほとんどの場合、今までまるで関心を持たなかった宗教や霊的なことに強い関心を持つようになる。
そして宗教書や心霊関係書物を読みあさるようになる者も多い。
しかし、だからといって教会や宗派にとらわれた堅苦しい信仰心に陥ることはない。
むしろ逆に、教義のための教義や形式ばった祈りの作法、ましてや、教会における地位や宗派間の論争などには一切関心を持たなくなってくる。

ある臨死体験者は次のように証言している。
・・・あの幻の中で私は、自分が神学一辺倒の高慢ちきな頑固者だってことがよくわかりました。
同じ宗派以外の人たちや、私が信奉する神学上の信仰を支持しない人を見下げていたわけなんですからね。
神は神学や宗派のことなどに全く関心を持っていません。
そのことが分かったら驚くような人たちが私の知り合いにはたくさんいますけど。

 

深く考えて行動しているわけではありませんが、自分は現在日本、インドで様々な宗教を持つ素晴らしい方たちとご縁をいただいており、それがなぜできるのかというと、ここに書かれているような、本来宗教が持つべき「心のあり方」の部分で思いを共有できているからなのだと感じます。

体外離脱をした時に天上へと導かれた時の感覚、母が亡くなった後に東寺の大日如来像から受けた光と悟り、関空ですべてのものが手元から無くなった後、まるですべてを得たかのように感じた幸福感、この爽やかで清々しく、一片の不安も形式もないあの思い、それが新たなる心の時代のあり方なのだと思います。

けれどこれは一人一人が自ら感じ取るもので、言葉や形で伝えることはできません。

これから迎えるイニシエーションとは、社会の大きな変革であると同時に、個人の心の中で起こしていかなければならないものなのかもしれません。

これまでこのホームページで書いてきたことを含め、今の自分の思いをまとめて綴りました。
正直言って、宗教のことを少しでも批判的に書くのは心が痛みます。
それは同時に自分自身にも刃を向けることになるからです。

その刃を自らがイニシエーションを乗り越える糧としていきます。