いのちをいただく

この世の中で最も尊いものは生命、その生命を保つために日々欠くことのできない食べ物は、身の回りのものの中で最も大切にしなければならないもののひとつです。

そしてその思いを形として表す手段として実践していることが二つあります。
ひとつは好き嫌いなく食べ物に口にし、出されたものは残さずきれいにいただくということです。

自分が持ち歩いている名刺は自己PRのための大切なツールと考え、裏面にもプロフィールや目標とすることをビッシリと載せています。
その中で「食べ物に感謝し残さずいただく」ということを、自己決意表明の意味も込め、モットーとして書いています。

実際に外で食事をして食べ残すことはほとんどなく、そのことが回りにもよく知れていて、一緒に食事をしている人が食べきれないと感じたものは、事前に自分のところに廻ってきます。

もうひとつ心がけていることは、生命を与えてくださる食べ物に感謝の思いを感じながら、ゆっくりと噛んで食べるようにするということです。
けれど「食べ物の食べ方、噛み方」はその人の「生き方、考え方」に直結し、それだけ大切なものであると同時に、だからこそなかなか簡単に変えることができません。
ですからこれはトレーニングです。

そしてそのトレーニングであることをいつも忘れないようにするために、常時携帯するカバンの中に小さな箸置きを入れています。
その箸置きは普段はほとんど使うことがなく、ほぼお守りのような状態ですが、その箸置きがあるということを意識して、食事中は随時箸を置くように、つまりいったん食べ物を口の中に入れたらしばらく間を置き、ゆっくりと噛んで食べることを意識しています。

 

その大切な食べ物を、日本はほとんど自給できていません。
農水相の統計によると、平成29年度、カロリーベースでわずか38%です。

ですからその低い食料自給率をなんとかすべく、食料生産者ではなくかつ大食漢の自分は、食べ物を残さずいただくということとともに、大量の飼料穀物を必要としエネルギー効率の悪い肉や魚ではなく、野菜を多く摂ることを心がけています。

 

とは言うものの、自分はベジタリアンではありませんので、基本的には植物性、動物性、どのようなものでは好き嫌いなくすべて美味しくいただいています。

食についての考え方は様々あり、どれが絶対に正しいと言い切ることはできません。
日本では、自分の周りに完全菜食主義の方はいないので、それが本当にいいことなのかどうか分かりません。

けれどインドは菜食主義の人が比較的多く、町でも看板に「VEG RESTAURANT」と書かれた菜食の方向けの料理を提供するレストランをよく見かけます。

五年前三ヶ月半滞在したインドの村はベジタリアン、それも卵や乳製品も摂らない完全菜食主義ヴィーガンの人が多い地域で、普段の食事は完全に野菜だけのものでした。

休みの日などは滞在している学校スタッフが気を使ってチキンの出るレストランに連れて行ってくれたりしましたが、普段は特に肉や魚を食べたいと強く思うことはありませんでした。
なぜその時に肉や魚を恋しいと思わなかったのか、後になって考えてみると、それだけ日々口にしていた野菜に生命が宿っていたからだと思います。

インドの田舎のほとんどの家は冷蔵庫がなく、寮の子どもたちに食事を作るキッチンには、入り口付近にぶら下がっている電灯以外の電気製品はありません。
ですから食材はすべて採れたて旬のものです。

またハウス(温室)などは村にはなく、すべて露地栽培、たぶん農薬や化学肥料もそんなに使われていないものだと思われます。
だからこそそれらの野菜だけで日々健康に生きていくための生命エネルギーが摂取でき、肉魚なしの生活で満足できたのだと感じます。

 

以前親しい年配女性がベジタリアン生活を続けていましたが、どうしても体調が整わないということで断念されました。

やはり日本の今の食料事情、目や舌を喜ばす食材は豊富でも、“いのちをいただく”という意味でエネルギーの不足している食べ物ばかりの日本の状態では、完全ベジタリアンで生活するのは難しいのではないでしょうか。
これはあくまでも個人の感覚、感想です。

今年の三月、ヴィーガンYouTuberとして人気を博していたヨヴァナという女性が、陰でこっそりと魚を食べていたことがバレ、炎上騒ぎとなりました。
ヴィーガンの人気YouTuber、魚料理を食べていたことが発覚しSNS炎上(米)

カリスマ的人気のヴィーガンですら、完全に動物性食品を絶って健康を維持するのは困難だというのは注目すべき事実です。

 

ただ日々美食、過食を重ねるよりは、植物性食品中心の適度な食生活の方がより健康的であるというのは正しいことだと思います。

また仏教の精進料理が動物の殺生を避け、野菜だけで作られていることからも、ベジタリアン生活は、人間の気質を穏やかなものにする力があることも事実だと思われます。

けれど何事も行き過ぎはいけません。
ベジタリアンの極であるヴィーガン、その中でも最もそれに傾倒している人たちの中には、過激な行動に出る人たちが少なからずおられます。

フランスでは暴徒化したヴィーガンが屠畜場や精肉店を襲うという事件があり、社会問題化しました。
「肉屋襲撃」で揺れる仏 ヴィーガン一部過激化?

日本でも「肉フェス」会場前で肉食を否定する看板を上げたり、鯨肉料理店に廃業をすすめる手紙を送ったりとか、結構過激な行動が批判を集めています。
【悲報】ヴィーガンさん、鯨肉料理店を閉店に追い込む……

 

 

この世の生きとし生けるものは、みな他の生命をいただいて自らの生命を保っています。
これはこの世の中の摂理です。

その殺生を少しでも少なくしようと菜食主義になるのは尊いですが、それとて絶対ではありません。
最近見たこの農家の方の意見には大いに頷きました。

ベジタリアンもヴィーガンも自らが実践するのはいいことですが、それを絶対視し、他人にもすすめるのはまだしも、強制しようとすることは避けるべきです。

それが過激化し、殺生を避けるために争いをする・・・、これはまるで「健康のためなら死んでもいい」、「平和を守るための殺し合い」といった笑い話と同レベルです。

 

考え方は人それぞれですが、間違いなく大切なのは、その根本にある、
『人間は他のいのちをいただいて生かさせてもらっている』
という事実、だからこそそれに対して感謝をするというこということです。

愛用のカバンの中にはいつも何点か大切な資料を入れていて、随時人にお見せできるようにしています。
そのひとつが「いのちをいただく」という資料です。

画像をクリックするとPDFファイルが開きます。
印刷して多くの人に読んでもらってください。

いのちをいただく

いのちをいただく

その絵本の帯に、一人の名もない主婦のメッセージが書かれていた。
「朗読を聞いて、うちのムスメが食事を残さなくなりました」
絵本に「坂本さん」という人が登場する。 実在の人物である。

坂本さんの職場では毎日毎日たくさんの牛が殺され、その肉が市場に卸されている。
牛を殺すとき、牛と目が合う。 そのたびに坂本さんは、「いつかこの仕事をやめよう」
と思っていた。
ある日の夕方、牛を荷台に乗せた一台のトラックがやってきた。
「明日の牛か・・・」と坂本さんは思った。
しかしいつまで経っても荷台から牛が降りてこない。 不思議に思ってのぞいてみると、
10歳ぐらいの女の子が、牛のお腹をさすりながら何かを話しかけている。 その声が聞こえてきた。
「みいちゃん、ごめんねぇ。 みいちゃん、ごめんねぇ・・・」
坂本さんは思った、「見なきゃよかった」
女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。
「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。 だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。
ばってん、みいちゃんば売らんと、お正月が来んとです。 明日はよろしくお願いします・・・」
「もうできん。 もうこの仕事はやめよう」と思った坂本さん、明日の仕事を休むことにした。

家に帰ってから、そのことを小学生の息子のしのぶ君に話した。 しのぶ君はじっと聞いていた。
一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言った。
「やっぱりお父さんがしてやってよ。 心の無か人がしたら牛が苦しむけん」
しかし坂本さんは休むと決めていた。
翌日学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。
「お父さん、今日は行かなんよ!(行かないといけないよ)」
坂本さんの心が揺れた。 そしてしぶしぶと仕事場へと車を走らせた。

牛舎に入った。 坂本さんを見ると、他の牛と同じようにみいちゃんも角を下げて威嚇するポーズをとった。
「みいちゃん、ごめんよう。 みいちゃんが肉にならないとみんなが困るけん。 ごめんよう」
と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。
殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。 坂本さんが「じっとしとけよ、じっとしとけよ」と言うと、
みいちゃんは動かなくなった。
次の瞬間、みいちゃんの目からは大きな涙が落ちた。
牛の涙を坂本さんは初めて見た。

心を込めて「いただきます」「ごちそうさま」を