過去何度か、ネットを使ったことがない方にネットの利便性を説明した時、
「けどインターネットって嘘の情報が多いんじゃないですか・・・」
という言葉を返されたことがあります。
たしかにネット上には嘘の情報も蔓延しています。
けれど嘘がすぐに露呈してしまうのもネットの特長であり、フェイクサイトと呼ばれる詐欺や個人情報搾取を目的としたサイトも一部あるものの、様々な方面からひとつの物事の真実を探っていくのにネットほど便利なものはありません。
そしてそれと正しく関わっていくためにも、個々人が高いネットリテラシーを持つことは不可欠な条件です。
またネットを使わない主に年配の方たちは、日本人特有の「お上意識」というものが強く、新聞社やテレビ局といった権威ある大手マスコミが嘘の、または誤った報道をするはずがないという強い思い込みを持っておられるようです。
このことは昨今まさにインターネットの発達によって、これまでマスコミがいかに国民に対してひどい情報操作を行ってきたかということが明らかになってきました。
嘘とは誤った情報だけではなく、意図的な情報操作も含まれます。
ひとつひとつの情報が事実であったとしても、それが偏った方向のものばかりであったとすると、全体としてそれは偏向されたものであり、真実を伝えていると言うことはできません。
これが最近よく言われるマスコミにおける『報道しない自由』というのもそのひとつです。
朝日新聞の偏向、捏造報道はつとに有名ですが、残念ながらそういった傾向は全マスコミに共通していて、それを知る若いネット世代を中心に、テレビ、新聞離れを引き起こしているのは必然的現象です。
そしてそのマスコミによる偏向報道の大部分が反日、反政府であり、TBSの「サンデーモーニング」、テレビ朝日の「報道ステーション」などはその典型的な例で、ネットのなかった一昔前ならば、そこで語られていることを多くの人が真実だと思い込んでしまったでしょう。
いまやインターネットは国民を偏向報道から守る盾となっています。
<サンデーモーニング 反日 – Google 検索>
またマスコミによる捏造報道の最も分かりやすいものがテレビの街頭インタビューです。
テレビ局が仕込んだ劇団員を一般市民と偽り、自分たちの意図した発言を「街の声」として報道しています。
こんなことも少し前だったら絶対に分からなかったことで、たぶんこのような報道姿勢ですべての番組が作られているものと思われます。
本当に恐ろしいことです。
けれどどんな世界にも悪い人間は存在し、それはネット社会でも例外でなく、ネット上にも新たな詐欺的手法が広まりつつあります。
少し前、2ch創設者であるひろゆき氏が、
「うそはうそであると見抜ける人でないと掲示板を使うのは難しい」
と発言して話題となりました。
今やそのうそも巧妙化し、そのうそを完全に見抜くことは不可能です。
できることはそれに信憑性がどの程度あるのかを感じ、自己責任でそれに対処するのみです。
最近、中国の個人や中小企業向けに、日本のAmazonに進出する為のセミナーがあちこちで開かれていて、そのメソッドがえげつない…という話が興味深かった。
という内容のツイートをしたけれど、長くなったので、画像にまとめました。 pic.twitter.com/HrQCPZq9sT
— 台湾人 (@Taiwanjin) July 13, 2018
昨日このツイートを見て、その悪質さに驚きました。
ここまでモラルが崩壊したならば、もう対策のしようがありません。
ここで思うのは、ネットに限らず、現代人があまりにも自らの感覚をないがしろにし、他人の意見や情報のみに価値を置きすぎているのではないかということです。
そしてその依存体質があるがゆえ、こういった詐欺も生まれやすいということです。
上のAmazonだけではなく「食べログ」などもそうですね。
自らの持つ味覚ではなく、他人の付けた点数評価に一喜一憂しするのはとても滑稽です。
またそうであるからこそ意図的な点数操作も生まれます。
ここで語っている伊集院光の意見は秀逸です。
よかったらご覧ください。
「日本人は操られている・・・」
これも昨日、神谷美恵子の『生きがいについて』、それを論じた「100分de名著」のテキストを再読しました。
そこに綴られている言葉の数々は、先の詐欺の世界とはあまりにもギャップが大きく、逆に清々しさすら覚えます。
まさに天と地です。
長島愛生園というハンセン氏病患者を隔離する療養所で42歳という短い生涯を終えた詩人の志樹逸馬は、不自由になった身体で数々の詩集を書き上げました。
その志樹逸馬についてテキストの中でこう述べられています。
「生きる味に尊厳さがあり」と志樹はいう。
生きるとは、生を味わうことだというのです。
私たち現代人は食べるものさえも、味わう前に産地や加工法を論じ合ったりする。
言葉を味わう前に、誰が書いたのかを探ろうとする。
そして誰かがよい、というものに追従することが少なくありません。
目の前にあるものを自分で確かめることをしなくなっている。
ネットに初めて接した二十年近く前、そのあまりの利便性に驚嘆し、まさに『第二の脳を得た』という感覚を覚えました。
そしてその『第二の脳』があまりにも優秀すぎるため、人間は本来その元となるべき『第一の脳』、自らの感覚というものをないがしろにしてきたのではないでしょうか。
ネットリテラシーとは、突き詰めれば自らの持つ内なる世界と外の世界との関わり方の問題なのだと感じます。
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