今日9月10日は、明日からの平和の集いの会場設営のため、朝から旧日本銀行広島支店に出かけてきました。
日本銀行の建物は今も昔も石造りの堅牢なものというイメージがあります。
日本の金庫として大切なところ、たぶん何らかの基準があるのでしょう。
堅い壁や床は声がよく響き渡ります。
これは一通り設営が終わったところです。
当初の展示は、
HPS国際ボランティア
加藤大貴君絵画
内藤達郎平和写真
わこ盲導犬育成支援プロジェクト
南インドの子どもたちを支援する会
の五団体でしたが、ここに
日本タッチ・コミュニケーション協会
かんなプロジェクト
そしていくつかの学校が加わり、盛りだくさんの展示内容となりました。
これが自分が設営したわこ盲導犬育成支援プロジェクトのコーナーです。
こちらは南インドの子どもたちを支援する会、A4版で印刷し、ラミネートをしたたくさんの写真を張りました。
折り鶴を折ってもらうコーナーも設けました。
折っていただいた折り鶴は次回インドに持っていきます。
明日はインドの神様ガネーシャの像など飾りをいくつか持っていき、もう少し雰囲気を出す予定です。
明後日12日の慰霊式典はこちらで行い、その飾り付けも終えました。
明日9月11日から14日まで四日間開催です。
ここから少し別の話を・・・。
今朝は朝の9時前に会場に入り準備をしました。
表はまだ開いておらず、裏の関係者入り口から入り、その時建物にいたのは警備員さん三名と自分と主催団体の女性、計五名です。
最初はまったく何もないがらんとした空間だったので、まずは椅子と机を会場に運び込むことにしました。
椅子と机は三階の一室に収められていて、75年前の被爆当時のままを再現するためでしょう、その部屋の入り口の上には「医務室」というネームプレートが掲げられています。
そこから一階に椅子と机を下ろすのですが、古い構造の建物なのでエレベーターの奥行きがなくほぼ正方形の形で、長机を斜めに一本入れるのがギリギリのサイズです。
ですから搬入するために、エレベーターで三階から一階を計十回ちょっと往復しました。
その時のことです、三階までエレベーターで昇り、机を持ってくるほんのわずかな時間になぜかエレベーターが他の階へと移動してしまうのです。
時間にして一分もないぐらいです。
三階にあったエレベーターが二階や地下一階へと移動してしまい、当初は誰かがスイッチを押して呼んでいるのかなと思ったのですが、再びすぐに三階へと昇ってきたエレベーターには誰も乗っていません。
これが毎回、正確には数えていませんが、八回ぐらいは連続して他の階へと動いてしまったと記憶しています。
建物の中には警備員さんと自分たち以外は誰もいません。
さすがに少し怖い気持ちになり、エレベーターの中で見えない何かに向かって「ありがとう、愛してます」と言葉を唱え続けました。
すると最後の二回ぐらいは三階に留まったままになってくれましたが、確実に何かの存在を感じました。
警備員さんに尋ねても、もちろんエレベーターが勝手に動き出すことなどないとのことです。
旧日銀は爆心地からわずか500メートルのところにあり、75年前の原爆が投下された直後は堅牢な旧日銀の建物は残っても、回り一面はすべてが廃墟と化しました。
これがその当時の写真です。
このあたりの人たちはたぶんほぼ即死状態で、当時の日銀に勤務されていた多くの方も亡くなられました。
「原爆投下と日本銀行|日本銀行 広島支店」に詳しい当時の状況が綴られています。
殆どの職員(実働者85名)が店内ならびに出勤途上や自宅等で被爆しました。
脅威的な破壊力と殺傷力をもつ原爆の不意打ちであったために、被害は激甚をきわめ、死亡者は37名、負傷者は15名にのぼり、本行戦災史上未曾有の惨禍となりました。
まだ弔い切れていない御霊がおられるのでしょうか。
明日は朝一番で自分なりに慰霊をさせていただきます。
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