昨日の「いのちをいただく」に引き続き、食について感じたことを書いてみます。
インドでトリチーのホームにいる時は、朝食と夕方に食べるティッフィン、そして夕食は、子どもたちと一緒に食べています。
(子どもたちが学校に行っている間の昼食はスタッフたちと一緒です)
自分と一緒に食事をして何が楽しいのか分かりませんが、子どもたちからはいつも手を引っ張られ、大騒ぎしながら楽しい食事の一時を過ごしています。
子どもたちは自分に少しでもかまってもらいたいようで、様々なアクションを起して楽しませてくれます。
ご飯は楽しく食べた方がいいですからね、本当に有り難いことです。
ある時一人の男の子が、夕食に出た魚のフライを手でつまみ、それを上の方から口に入れ、まさに恍惚の表情といった感じて「ウ~ン、ティスティ~♪」と美味しそうに味わっていました。
テイスティー(tasty)とは美味しいということ、それはもちろんふざけてやったのですが、その仕草がとても面白かったので、それから自分を含め子どもたちみんなでそれを真似、たびたび面白がっていました。
こんな感じです。
ホームでの食事は一週間のメニューが決まっていて、牛肉、鶏肉、魚が出るのがそれぞれ週に一回、ゆで卵が週に二回で、ほとんどが野菜、特に穀物がメインといった内容です。
男の子が最初に「テイスティ~♪」と言ったのは魚でしたが、それから肉でも野菜でも、同じように「テイスティ~♪」と言いながら、たびたび美味しそうにゆっくりと、そしてみんなで楽しく味わっていただきました。
その時に強く感じたのが、「テイスティ~♪」と言って深く味わって食べるにふさわしいのは肉や魚だということです。
野菜が美味しくないことはないのですが、口の中でゆっくりと噛みしめ旨味が出るのはやはり肉や魚といった食物連鎖の上位のものです。
食物連鎖上位のものは、家畜や養殖魚といった食料としてエネルギー効率の悪いものですが、その分下位のものからもらった生命エネルギーという旨味が凝縮されています。
肉食の健康に与える影響は諸説あり、人間にとって動物性食品は一定量必要なのか菜食がいいのかは分かりません。
ただ間違いなく言えるのは、食料生産技術や物流が発達し、どんな食材も自由に手に入るようになったなら、人間は自然と動物性食品を摂る量が増えていき、それに適応していくであろうということです。
現に戦後日本は食生活の西洋化が進み、経済発展とともに食における動物性タンパクの摂取量が増え、植物性食品をゆっくりと時間をかけて消化吸収するための長い腸から動物性食品の栄養を手早く取り入れるための短い腸へと身体が変化していきました。
近年著しい経済発展を遂げた中国も同様で、動物性タンパクの摂取量が急激に増え、それが世界の(飼料)穀物消費量の増大につながっています。
肉食の是非は分かりませんが、日本人が過食気味であることは確かです。
そしてその過食となる大きな原因のひとつが、食材に生命エネルギーが宿っていないということ、それと食材そのものに味わいがないということです。
これは女優である高木美保さんの言葉です。
栃木県の那須高原で田舎暮らしをスタートさせて5年目。最近、私の食生活にある特徴があることがわかった。
不思議と、家にいる時は食事の量が少なくても満足感が得られるのに、外食の場合だと、満腹になるまで食べても物足りなさを感じるということだ。
これは、家の畑でとれた野菜類が、新鮮で生命力たっぷりなせいだと私は推測する。
だから少量で満足できるのだ。
ということは、食事というのはつまるところ、生命力の摂取のための行為と考えられないだろうか?
インドの鶏肉はとても旨味があって美味です。
ただ単に油で揚げた何の工夫もしていないチキンでも、噛みしめるとしっかりと肉の旨味があふれてきて、それを食べると、いかに日本で口にする鶏肉が味がなく、ただ歯応えと調味料の味だけのものなのかがよく分かります。
インドの鶏はきっと自然な育てられ方をしているのでしょう。
それと鶏肉店の店頭で生きた鶏を捌くので、肉が新鮮だということもあります。
日本が今のように生命のない食生活を続けていると、食に対して正しい判断ができなくなり、本来本能、味覚という生命を維持するための大切なアンテナによって導かれるべき食のあり方が、商業主義という生命原理とは異なるシステムによって望ましくない方向へと引っ張られていく危険性があります。
人間はどのようなものを口にすべきなのか、そのことを考える最前提として、口にすべき食品ひとつひとつをキチンと生命エネルギーに満ちたものにしなければなりません。
そしてそれと同時に、しっかりと食べ物を噛みしめ、味わはなくてはなりません。
また味わえるような食品であることが必要です。
玄米食が絶対にいいとは言い切れませんが、玄米が一種の完全栄養食であることは事実です。
その玄米はよく噛んで食べることが必要だと言われますが、玄米は白米よりも味わい深く、意識しなくても自然と噛む回数が増えてきます。
これが本来の味の持つ深みです。
玄米がいかに生命エネルギーに満ちているかは、それを口にし、腹八分目で十分に満足感が得られることでよく分かります。
またそれでいてとても腹持ちがよく、食後長時間経ってもなかなか空腹感がわいてきません。
不思議ことですが、先の高木美保さんの言葉にあるように
「人間は食物の生命エネルギーを食べている」
のだと感じます。
話が少し飛躍しますが、聖書の中にこんな有名な言葉があります。
「人はパンのみによって生きるにあらず、神の口から出ずるひとつひとつの言葉によって生きるのである」
これを食という面で解釈すると、人間は食品の持つ物質的栄養でもってその生命を保っているのではなく、その物質に秘められた生命エネルギーを摂取することによって生命を維持しているということではないだろうかと、自分は勝手に考えています。
いずれにせよ、食は生命を保つために最も大切なもののひとつです。
この食のあり方を、世間の風潮に流されるのではなく、自らの知恵と感覚で求めていくことが望ましく、またそうならなければなりません。
「ウ~ン、ティスティ~♪」、あの時の子どもたちの笑顔が永遠であることを願います。
コメントを残す