一本の映画から感じること

世界から希望が消えたなら

ここ最近映画を何本か観る機会がありました。
最近の映画館はどこもキレイでゆったりと座れ、大きなスクリーンは迫力満点です。
また映画館は家のディスプレイで見るのとは違い、上映時間中暗闇の中で集中し続けなくてはならないのがいいですね。
ビデオと映画とでは感動の大きさといつまでも残るその印象が段違いです。

これは映画に限らずですが、展示会でもイベント、コンサートでも、そのものの善し悪しに関わらず、必ず心に残すべきものがあります。

いいものは素直に感動すればよく、またそうでないものでも、今自分は何を必要としてこれと出合ったのか、ここから何を感じ取れるのだろうか、そんなふうに受け止めるようにすると必ず何か得るものがあるはずです。

 

そんな考えになったのには、ほぼ毎週参加している異業種交流会 積極人間の集いの影響が大きくあります。
積極人間の集いでは、毎回講師の話が50分間(以前は40分間)あり、その後その感想や個人の思いなどを約三十名の参加者全員が一言スピーチをします。

講師は毎回多岐に渡り、老若男女、様々な分野の専門家や何らかの趣味を持っている人たちがテーマを決めて話をしてくださり、その内容は正直言って、面白いものもそうでないものもいろいろですが、その後の会員スピーチが実に面白く、みなそれぞれまったく異なったものの見方をしていて、それを知ることができ、とても為になります。

大切なのはその話の内容だけではなく、それをいかに自らが感じ取るのか、そのことを毎回学ばせていただいています。

 

その積極人間の集いに幸福の科学の信者さんがおられ、その方から幸福の科学が作った映画のチケットをいただき、昨日近くの映画館に観に行ってきました。

幸福の科学の総裁である大川隆法が制作総指揮・原案の『世界から希望が消えたなら』という作品です。

映画の作りとしてはそんなにクオリティーの高いものとは思いませんが、その内容からいろんなことを感じ取ることができ、その点でなかなか興味深いものでした。

《ストーリー》
ベストセラー作家であり、自ら出版社を経営している御祖真(みおやまこと)。妻や3人の子供にも恵まれ充実した日々を過ごしていた彼には、誰にも言えない“秘密”があった。そんなある日、帰宅途中に胸の苦しみを感じた真は、外の空気を吸うために送迎車から降り、庭園を散歩する。そこでは結婚式が行われていた。娘の将来の花嫁姿を思い浮かべた矢先、激しい心臓発作に襲われその場に倒れてしまう。意識を失いかけた真の手には、トルストイ著『復活』が握られていた。緊急搬送された病院で医師から告げられたのは、無常にも“死の宣告”だった。

これはたぶん大川隆法の人生の歩みそのものを題材としいるのだと思われます。
ベストセラー作家である主人公が、ある時から霊的な方向に歩みを進め、自らの著書に『精神の持ち方で病は治る』というようなことを書くようになり、理解のない妻から猛烈な批判を受けます。

そしてその後妻とは離別するのですが、これは以前幸福の科学の要職(No.2?)に就いていた元妻きょう子さんとのことをなぞらえているのだと思われます。
映画では奥さんが主人公を罵っている時、奥さんの顔が悪魔とオーバーラップする場面があり、実際に大川隆法の元妻は子どもから悪魔呼ばわりされたとのことです。
これを見て信者さんはどう思うのでしょう?
ちなみにきょう子さんは、元旦那の隆法氏の女性問題の数々を暴露されています。

また三人いる子どもたちの中で長男が何かと反抗的態度を取るのも、実際に大川氏の長男宏洋(ひろし)氏は教団を離れ、今はYouTuberとして父親や教団に対して批判的発言を繰り返し、教団から四千万円あまりの損害賠償を求められていて、それと合致します。
なかなか凄まじい家庭ですね。
(ただし映画の中では最後に和解します)

<大川宏洋氏への損害賠償請求訴訟について | 幸福の科学 HAPPY SCIENCE 公式サイト>

2019.09.10

本日9月10日(火)、ニュースター・プロダクション㈱は、大川宏洋氏に対して、YouTubeや雑誌での一連の誹謗中傷のため、本人主演映画『さらば青春、されど青春。』DVDの発売ができなくなったこと等により、4,265万円の損害賠償を求め、東京地方裁判所に提訴いたしました。

幸福の科学グループ広報局 

 

そんな家庭内のゴタゴタを抱えながらも神、エル・カンターレとして大川隆法を讃える信者の方たちの信条とはいかなるものなのか、普段はまったく考えることもないこのようなことを、たぶん信者さんたちであろうと思われる周りにポツポツとおられる観客の方たちと同じスクリーンを見つめながら思考を巡らせました。
考えて分かるものではありませんが・・・。

映画の中で、主人公の周りにキリストや仏陀(だったかな?)といった聖者が啓示を持って現れ、彼の歩みを励ますと同時に、これまでの宗教で唱えていた別々の神ではなく、それらの大元である至高神の教えを説き、宗教の垣根を越え、すべての宗教を統合した最高のものを創り出す役割があるといったことを説かれるのですが、これにも当然大きな違和感があります。

これまですべての宗教で説く神が、『我こそは最高神である』と言ってきたわけで、その意味で、これまでの宗教と幸福の科学はまったく変わることがありません。
そしてその『我こそは』という思いが強いがゆえ、同じ平和や愛を説く者同士が諍い、時には殺し合いを繰り返してきました。

そしてその神名を告げる一人の人間をより神に近い者として崇め、絶対視し、その教えに盲目的に従い自らの判断力を失った結果、多くの過ちを犯してきたことを忘れてはいけません。
さらにその盲信の対象となるカリスマを血統という血のつながりで受け継いでいき、それが既得権益化するところから腐敗がはじまります。

ある特定の人物を絶対的存在として奉り上げるのは、人間のカルト(狂信)性を高める極めて危険な行為です。

 

本当にすべてを統合した普遍的なものを求めるのならば、目に見えない天上の神に目を向けるのではなく、実際にあまねくものに存在している生命、その根底に通じている自然界そのものを感じ取るべきです。

それが陰陽の精緻なリズムで運行している歴史というものの持つ生命であり、すべてが原初の理に立ち返る今という極めた大きな転換期に於ける根源の真理です。

そのことは『新たなる生命の時代』にまとめて記しています。
すべてのものに通じるもの、これが究極の統合概念であり、だからこそ『サムシンググレート』ではなく『エブリシンググレート』です。

 

主人公は心臓の肥大化という病により「死の宣告」を受けるほどの重篤な状態になるものの、自らの信じる力によってその状態を克服していきます。

その体験を自らの著書で説くことによって多くの人の賞賛を受け、救いを与えますが、映画の中ではごく一般的な感覚に囚われた妻から猛反発を受けます。

心の持ち方が病に大きな影響を与えるというのは、世間ではどの程度常識として受け入れられているのでしょうか。
このホームページで何度も書いているように、自分の周りではそういった“奇跡”のようなことは日常的に起きているので、逆にそれが常識化し、一般的、常識的な病気に対する考え方というのが感覚的につかめません。

ただひとつ分かるのは、現在広まっていこうとしている心の持ち方が肉体に与える力というのは、常識的に考えられているものよりもはるかに大きいということ。
そしてその考え方が広まっていくことは多くの人にとって利益となるものの、それは現代医療に従事する人たち、医師をはじめてする医療従事者、製薬会社という“既得権益者”にとってはその利権を脅かすものであり、彼らはそれをなかなか公に認めようとはしないだろうということです。

ですから同じく既得権益者であるマスコミは、現代医療と相反する民間療法やホメオパシーといったものに対して否定的になるのは当然なことです。

例えば「ありがとう」という感謝の言葉で末期ガンを克服された工藤房美さんのような話題より、現代医療を拒否し、民間療法に頼りすぎてガン治療が手遅れになったというような話題の方がマスコミに載りやすいのです。

どんな団体にも個人にも固有の利権があり、それゆえに情報の伝わり方にはバイアス(偏向)が加わります。
それを是正できない現実がある限り、何事も極力自分で確かめる、なるべく偏向の少ないものから情報を求める、あるいはそこにはどのようなバイアスが加わっているかを考慮し、それを勘案した上で接する、こういった対処方法しかありません。

 

他にもちょっとした登場人物の台詞など、この一本の映画から感じることが多々ありました。
よく考えてみると、普段テレビをまったく視ることがないので、それだけドラマの細かい流れに目が行くのかもしれません。
また日本映画だからより日常生活と比較しやすいということもあると思います。

裕福な家庭なのは分かるが家が豪華すぎる、
秘書さんが超品行方正、
家族間の敬語がめちゃ丁寧、
子ども部屋が片付き過ぎ、
子どもは普段もっと無駄な動きをしまくるだろう、
病人なのに顔色よすぎ、
看護婦さん悟ったようなこと言い過ぎ、
集中治療室が心電図測定装置以外の雑音が一切ない、
奥さん病室や治療室で大声出しすぎ、
イギリスでの公演シーンは日本のセットでの撮影で、エキストラは在日外国人かな、

そんな映画の本質とは関係のないことをいちいち面白く見て、もっとリアルにしたらどうなるんだろう、自分が脚本家、演出家だったらどうするだろう、そんなことを考えてみるのも実に楽しいものです。

何でもいい、何かを感じ取る、それが喜びです。