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効果を体感する_3

幼な子のようにならなければ

人間は誰しも様々なものを感じ取る能力を持っていて、その感じる力を感性と呼んでいます。

現代人は感性が鈍くなったとよく言われます。
情報化社会の今は昔と比べ、圧倒的に豊富な情報や刺激に囲まれ、自らがそれらを直接的に感じ取る、つまり一次情報として周りの物事を受け取るよりも、他人や権威あるものが加工した二次情報をそのまま受け入れることが多くなっています。

これは分かりやすくかつ極端な例として食事に例えるならば、情報という食材をしっかりと噛み砕き、胃腸で消化させることが直接体験、一次情報の受け入れです。
それに対して今身の回りにあふれている二次情報は、とてもよくできたサプリメント、流動食、あるいは点滴によって栄養補給するようなものであり、それは効率的ではありますが、人間が生きるために必要な基本的能力である咀嚼、消化能力を衰えさせてしまいます。

アメリカやオーストラリアの先住民たちはテレパーシーを通常能力として使ったり、アフリカ原住民には視力5.0,6.0といった人が珍しくなかったとのことです。
人間は日常必要な能力は身に付くものの、逆に必要でないものはどんどん衰えていってしまいます。

食料事情のよくなかった昔は食材が腐ってしまうことがよくあり、当時の人にとっては口に入れるものが腐っているかどうか、自分の体が求めているかどうか、さらにはそれがどんな病に効くものかどうか、そういったものを敏感に感じ取る能力は生きていくために必要なものでしたが、今はほとんど必要ではありません。

今は快適な住居で暮らし、スマホやパソコンでインターネットを見聞きするといった条件、環境の整ったところで過す最低限の能力があれば、それ以外の感性、五感の力は特に高いものを必要としません。

 

過去の体制や価値観が継続的に発展し続けている時代、陽の時代は、新たなものを感じ取る感性よりも旧来の出来上がったものを継承させていく処理能力が高い価値を持っていましたが、今はじまろうとしているすべての価値観を一新する陰の時代のスタート期は、無から有を産み出し、創り出す感性が求められます。

それが身近なところでは自ら“効果を体感”感性であり、この実に簡単、単純なことが、高度な知識を持つ現代人には逆に難しくなっています。

 

『簡単なことほど難しい』これは多くの現代人が抱える現代病のようなものです。

自分が感じ取ったものよりも、権威ある人が唱えているものの方が価値がある。
好き嫌いで物事を判断してはいけない。
自分で判断したものよりも、偉い人が勧めてくれたものに従う方が幸せになれる。
素直とは、人様の言うことをうそのまま受け入れること。
簡単なもの、タダや安いものには価値がなく、本当にいいものは難して高価なはずである。

こういった考え方が現代人の頭の中を巣くっていて、それがさらに感性を鈍らせ、己の内なる声から耳を遠ざける結果を招いてしまいます。

日本の高度経済成長期のような拡大発展一途の完全なる陽の時期には、こういった価値観は社会全体の発展を促す効率的なものではありましたが、それに対する見直しを求められる今のような時は、己の感性が鈍っていてはその打開策を見い出すことができません。

感性とは新たな方策を見つけ出す力でもあり、それがなければ、何かがおかしいと感じながらも、ズルズルと現状を維持し続けてしまいます。

今日はこんな木こりのマンガを目にしました。
感性が鈍るとこんな感じになるのです。

木こりのジレンマ 木こりのジレンマ

 

自分も若い頃は自らの経験で感性を養うより、たくさんの知識を身に付けた方が物事は効率的で上手く進み、知識は経験や感性の足りないところを補って余りあるものと信じていました。

その考えが打ち砕かれたのは、人生のバブルが崩壊し、最底辺の肉体労働に身を置いた時です。
泥まみれで肉体を酷使し、疲れ切った体で入るお風呂の心地よさ、食べる食事の美味しさ、この体の奥からこみ上げてくるような感覚、他と比べることのない幸福感、これこそが真に感じ取らねばならない感覚、感性だと、理屈ではなく己の肉体を通して知りました。

それはすべての権威や社会的なものを手放したことによって、やっとその奥に隠れていた己の声を聞くことができたということです。

それとは逆に手放せないもの、社会的地位、財産、安定した収入、人間関係、過去の経験や知識といったものがたくさんある場合、それを維持し、肯定していくために判断が狂い、感性を閉ざしてしまうことがあります。

上の木こりも「毎日どうしても十本の木を切り倒さなければならない」という捨てられない思いが大きかったがゆえ、一歩立ち止まって長い目で新たな方策を考えることができなかったのでしょう。

 

もうひとつは自己肯定感の問題です。
経済は安定した消費と成長によって支えられ、そのためには消費者の購買意欲、成長欲求を高めることが求められ、それがマイナス面として現状否定、自己否定へとつながっていきます。

ですから現代人は成長しようという意欲は高くても、今の自分を肯定的に見て、自分自身を愛することはとても苦手です。

自分はその人生バブルがはじけた直後頃から“人生のお師匠さん”と呼んでいた年配女性のSさんという方と親しくしていただき、その方から、

「もっと自分を愛しなさい」「もっと自分に素直になりなさい」

この最もシンプルで本来最も簡単であるべきこのことを、何度も何度も繰り返し繰り返し聞かせていただき、少しずつそれに近づけていった気がします。

またその頃はなぜか無性に自然が恋しくなり、週末になるといつも山登りに出かけていました。
きっと当時は自然から感じ取れる何かを心が強く求めていたのでしょう。

自分を愛するということは、自分が感じ取ったものをも愛し、受け入れるということ、これができなければ感性が豊かになるはずがありません。

 

その自分を愛するために、自分自身、またはその肉体に感謝の思いを持つことです。
その方法として、「身体との対話」は必要不可欠と言ってもいいほど大切です。

自分の体に手を当て、視線を向け、感謝の言葉を口に出す、
自分にとって最も身近な自分の体に感謝する、これは様々な感謝行の最も基本となるもので、自分はこれを二十年間継続して行うことで、体からの声を聴く力が飛躍的に高まりました。

二十年継続というとものすごいことのように思われるかもしれませんが、実はまったくすごいことではありません。
それは自分がこの「身体との対話」をはじめたキッカケが劇的なものであったということもありますが、そこから感じ取る喜びが大きいがゆえ、それを義務ではなく楽しみでしているからです。

何事も楽しくなければ長続きしません。
そのためにも“効果を体感する”、感じ取る力がその基本として必要なのです。

 

感じ取るということは、自らの心と体で何かを受け入れるということ、先の食事の例のように、それを咀嚼し消化するということです。

ですから普段から食べ物をよく咀嚼するということは極めて大切です。
この目に見える食べ物の咀嚼習慣が、目に見えない心の世界の“咀嚼能力”に大きな影響を与えます。

この咀嚼回数を増やすことを四ヶ月前から徹底するようになり、体で感じ取る力がさらに高まってきました。

しっかり咀嚼するということは、やろうと思えば老若男女、誰にでも一円もお金を掛けずに簡単にできることです。
けれどだからこそこれが難しい、そして効果が大きいのです。

 

この『簡単なことほど難しい』というひとつの壁は、ひとつクリアーすれば次々と乗り越えられるものです。

そして辿り着くところが人間本来の姿です。

『幼な子のようにならなければ,天国にはいることはできないであろう』
(マタイによる福音書 第 18 章. 1)

幼な子のようにならなければ