大恩人スギルタン

スギルタン夫妻

魂の故郷インド、今から31年前に初めてインドの地を踏み、その時から深いご縁を感じました。

それから17年後の東京で、南インドで布教活動をする日本山妙法寺サンカランコービル道場の石谷政雄上人と出会い、翌年石谷上人たちと同じく南インドでキリスト教系の児童養護施設を運営するスギルタン一家計六人を案内して東京、熊本、広島と二週間の旅をしました。

阿蘇

翌2008年には彼らのいる南インド タミルナド州を初めて訪ね、スギルタンのホームにも行き、そこで出会った子どもたちの純真さにすっかり心打たれてしまい、今に至っています。

インドのヤシの実

あれから南インドには計十回訪ねました。
スギルタンがいるのはインド亜大陸最南端のカニャクマリ、アラビア海、インド洋、ベンガル湾を望むことができ、観光客や巡礼者が多く訪れる聖地です。
気温も湿度も内陸部の都市と比べると適度で過しやすく、椰子の木が生い茂る南国の楽園といった感じです。

 

カニャクマリのホーム、地名からジオンプラムと言いますが、そこでの思い出は数え切れないほどあります。
その中でも特に忘れられないのが、小さな女の子たちからもらった可愛いプレゼントです。

訪問した初日は初めて会った子どももいて少しよそよそしい感じでしたが、少しずつ親しくなり、カメラに触れることの少ない子どもたちはみんなで「写真を撮って!」「写真を撮って!」とうるさいぐらいに騒ぐのです。
別にそれをプリントして配れというわけではなく、ただ撮って欲しいと言うだけなのですが、あんまりにもうるさく言うのでカメラは部屋に置いて子どもたちのところに行くことにしました。

そんな丸腰状態で子どもたちと接していると、ちっちゃな二人の女の子が自分のところに近づいてきて、これをプレゼントしますと可愛いアクセサリーを手渡してくれました。

可愛いアクセサリー

子どもたちはみな質素な暮らしをしています。
学用品や食器といったもの以外は、各自ひとつのボストンバッグに入るほどの荷物しか持っていません。
そんな中で、外国から来たゲストのためにと貴重なプレゼントを渡してくれたのです。

なんという衝撃、一瞬で自らの愚かさに気付かされ、背中の中心を腰から頭に向けて冷たいものが瞬時に走り抜けました。
事故に遭遇した時などにヒヤッとするあの感触で、今でもあの瞬間のことは鮮明に記憶しています。

子どもたちの純真さと比べてなんと自分は狭量なのか、プレゼントをもらった感動を胸一杯に抱え、深い反省とともに、可愛い子どもたちの写真をたくさん撮らせてもらおうと、カメラを取りに自室へと向かいました。

自分の部屋はオーナーであるスギルタンの家の一階にあり、家の前ではスギルタンが椅子に座って新聞を広げています。
彼に女の子からプレゼントをもらったこと、彼女たちの写真を撮らせてもらうんだということを告げるも、最後は胸が詰まって言葉になりませんでした。

部屋に置いてあったカメラを手にして子どもたちのところに向かおうとすると、スギルタンが自分を呼び止め、近くにいた子どもに伝え、女の子たち全員を家の前に呼び寄せてくれました。
写真左端に写っているのがスギルタンです。

スギルタン

彼が現地語で何を話しているのか分かりませんが、時々自分にも分かるように英語を交えてくれて、どうやら「サカイには自分が日本に行った時に随分世話になった」というようなことを話しているようです。

そんな様子を横で眺め、ただ涙、涙です。
人間の純真さに触れた時、人はこんなにも心動かされるものだということを初めて知りました。

その時にもらった小さなアクセサリーのひとつは今も机の目の前に飾っていて、これは生涯すぐ目に入るところに置いておくつもりです。
インドの子どもたちの純真さの象徴として、そして自分の中でそれを受け取れる心を保っていくために。

 

思い出深いジオンプラムのホームも二年前に閉園となり、何人かの子どもはスギルタンの弟であるクマールが運営するトリチーのホームに移っています。

カニャクマリには彼らの実家であり、彼らのセカンドハウスがあり、もう九十歳になる母親が暮らすアンブマナイというところがあり、そこに男児だけのアンブマナイ・ボーイズホームというのが以前はあって、初めてカニャクマリを訪ねた12年前には男の子たちがそこで生活をしていました。

この写真は、ホームの男の子、その時一緒だった日本の大学YMCAのメンバーたちと裏の岩山、通称モンキーマウンテンに登った時のものです。

モンキーマウンテン

 

現在スギルタンは元聾学校の校長先生だった奥さんとともに隠居をし、アンブマナイを自宅として生活しています。

自分も今年はここを訪れた時にインド全土に公布されたロックダウンに遭遇し、百日以上をここで過すことになりました。

スギルタンは自分がここを訪ねる少し前、体調を崩してマドライという大きな都市の病院に入院していて、再会した当初はかなり憔悴した感じで、甥のタンビの誕生日会の時も視線が定まっていないので少し心配になりました。

タンビ誕生日パーティー

けれど自分がいている間に徐々に体調を取り戻し、顔にも生気が戻ってきたように感じました。
これはそのスギルタンの誕生日会、インドの誕生日会は、祝ってもらう人と回りの人たちが互いにケーキを手で食べさせ合うようです。

スギルタンとお母さん スギルタンの誕生日会

この場所でロックダウンに遭って外出ができなくなり、特に外国人には厳しい規制が敷かれて状況的にはとても苦しい立場でしたが、彼らは自分のことを家族同然に扱ってくれて、
「サカイはファミリーだからここに一年間いても構わない」
とまで言って、立派な部屋と日々の食事を提供してくれました。
本当に恵まれた日々でした。

海外でロックダウンに遭った人の多くは、宿泊費のかさむホテルに缶詰になったりして大変な目に遭ったと聞いています。
自分のように温かい仲間に囲まれ、ある意味日本にいる以上に快適にロックダウン生活を送った人間は極めて稀でしょう。

スギルタン夫妻、その時一緒に帰省していたスレッシュファミリーたちと過した四ヶ月間は本当に貴重な思い出です。
最後に帰国便が決まった後にも大きなトラブルがあったものの、回りのインド人たちの献身的アシストのお陰で無事日本に戻ってくることができ、今年はあまりインドの子どもたちと接することはできませんでしたが、彼らファミリーとの心の絆を結ぶ素晴らしい日々であったと思います。

アンブマナイを離れる前夜、夕食の後、スギルタン夫妻に心からのお礼を述べました。
その時もやはり思いが一気にあふれてきて、滂沱の涙が頬をつたいました。

スギルタン夫妻

 

これは自分の部屋の外の廊下から見たスギルタンの家です。

スギルタンの家

スギルタンの家の奥にある緑の建物がゲストハウスで、この二階で快適に過していました。

ケストハウス

日中外の景色が見える廊下に椅子を出して本を読んでいると、よくスギルタンが上に昇ってきて話しかけてくれました。
いろんなものをコレクションするのが好きなスギルタンは欲しいものがたくさんあるらしく、一緒にネットを見てはそのこだわりを語ってくれて、自分も世話になったお礼に次回インドに行った時にはそれをプレゼントすると約束し、日本に戻ってからAmazonでポータブルナイフ、ステンレス保温カップ、電動シェーパーの替刃などを注文し、インド訪問時のバッグに入れてそれを渡す日を楽しみにしていました。

 

そのスギルタンが、一昨日の28日に亡くなったと甥のタンビから昨日メッセンジャーで連絡がありました。
ロックダウン中はマドライの病院に行くことができず、ロックダウンが解除されたらまた病院に行って検査してもらうと言っていましたが、やはり体調はよくなかったようです。

訃報を聞き、それまでの思い出が一気に蘇ってきました。
そして過去の写真を振り返り、彼が自分にとっていかに大きな存在であったかをあらためて感じています。

七年前の2013年には留学先であったアジア学園の記念行事のために来日し、弟のクマールとともに一緒に東京で三日間過したのも楽しい思い出です。

両国にて 皇居にて

彼は両国の江戸東京博物館で撮ったこの写真を、しばらくfacebookのプロフィール写真として使ってくれていました。

駕籠とスギルタン

彼が亡くなった12月28日は、彼の息子スジーブの誕生日です。
彼は中東オマーンの会社に勤務していて、今はたぶん帰国することができないと思います。
娘のスギラは結婚して一家でサウジアラビアに暮らしていて、子どもたちは二人ともエリートの生活です。

自分はスギルタンの生涯のごく一部しか知りませんが、彼は今天国でどのようなことを考えているのでしょう。

自分にとってスギルタンはインドの子どもたちとのご縁をつないでくれた貴重な存在であり、自分の人生に計り知れない大きな影響を与えてくれた恩人です。

スギルタンの死によって、自分とインドとの関わりが大きな節目を迎えたことは間違いありません。
天国にいる彼のご恩に報いるためにも、自らのスタンスを今一度考え直してみたいと思います。

 

かけがいのない恩人であるスギルタンのご冥福を心よりお祈りいたします。

I would like to offer my condolences for the loss of Mr.G Sugirthan.