体験すること

インドと縁ができたことをキッカケに、英語を学習しだして11年になります。
その間、 “テストで高い点数が取れる英語” ではなく、 “実際に使える英語” を目指して学習を続けてきました。
そしてそこで大切だと感じたのは、ただ知識をたくさん覚えることではなく、それらが体に染みこむようにすること、いわゆる『英語感覚』を身に付けることです。

知る-分かる-できる、この理解の三段階において、体に染みこむように身に付ける感覚とは、最後の “できる” ということです。
そしてそこに至るには、何度も、それこそ同じことを何百回も、あるいは千回でも徹底して繰り返しやることです。
さらにもうひとつ言えるのは、それを受け身ではなく能動的に行うことです。

ただ英会話教室で授業を受けるだけ、英会話のテープを何度も聞き流すだけではほとんど効果は期待できません。

 

英語を学び始めて驚いたのは、リスニング能力を鍛えるためにはただ聴くトレーニングを積むだけではダメで、それを声に出して自然と読めるまでリーディングのトレーニングをしなければならないということです。
これはまさに目から鱗でした。

リスニングとスピーキング、聴くことと話すこととを比べると、聴くことはより受動的であり、話すことはより能動的です。
はじめはリスニングからはじめても、その後は音読をリスニングに優先して行うべきだと考えます。

自身の経験からも、日々音読練習、特に意識して速く読むトレーニングを続けていると、少しずつでも確実にリスニング能力は向上していくのが分かります。

また逆の例では、インドに行って地元言語であるタミル語の会話を聴いていても、すべての音が塊となって聞こえ、ほとんど言語として認識することができません。
それは自分がタミル語の発音体系にまったく習熟しておらず、それを正確に発音することができないからです。

言葉はそれを自分が正確に発音できなければ、それが耳に入っても、音として認識できても、言語としてその音を理解することはできないのです。

 

その英語のリスニングとスピーキングの関係を、実に分かりやすく解説している動画と出合いました。
『自分が発音できる言葉しか聴き取れない』
そのことがこの動画を観るとよく分かります。

 

自ら声に出すことができるから聴き取ることができる。
これには深い真理が含まれていて、英語のみならず、他の様々な事柄にも共通して言えることです。

声に出すとは、自ら能動的に行動すること、体験することです。
そして聴き取ることができるとは、その物事を理解できるということです。

 

自分は仕事として、いろんなチラシや案内文を作ることがあります。
一度自らがその作る作業を経験すると、それ以降は他所からもらうチラシのレイアウトやフォント(字体)など細かい様々なことに目が行くようになります。

パソコンでの動画作成も同じです。
動画とは二次元の画像に時間軸を加えた三次元の世界です。
そのため二次元の画像や文章作成よりも考慮すべき要素が多く、なかなか大変な作業ですが、一度その大変さを体験すると、上手く作られた動画はどういったところに気を配っているのかがよく分かります。

二十年ほど前、電話の配管工事でマンホールの高さを路面に合わせて調整する仕事をしていました。
自分はそのマンホールの中に半身を沈め、外で手伝ってくれる人から練ったモルタルや接着剤を受け取って作業を進めます。
けれど手伝ってくれる人が不慣れな場合、それらを手渡すタイミングや量が思ったようにならないことがありました。
その時に思ったのは、普段手伝いをしてくれる人も一度マンホールの中に自ら入って作業をし、それがどんなものかを自分の身で知るべきだということです。
それを一度体験すれば、中で作業する人の望むことがよく分かるようになるはずです。

トイレ掃除もそうですね。
「トイレ掃除の十年」に書いたように、外のトイレ掃除は、それを継続して行わなくても、一度だけでも体験していただきたいと思います。
一度でも体験すると、言葉で言えないようなトイレへの思いが深まります。

 

物事に習熟するためには、 “できる” と言われる段階まで繰り返しトレーニングすることが必要です。
けれどその物事を見つめる目というものは、たった一度の体験で大きく開くことが可能です。

自分はトイレ掃除を十年間続けてきて大きな学びがあったと感じますが、その衝撃や意識変化というものは、やはり一番最初に体験したものが最大です。

 

もちろんより深く体験することよって気づきも深まるというのは事実ですが、逆に何度も体験してしまうとそれが当たり前になり、そのものを新鮮な目で見られなくなるということがあります。

古い話で恐縮ですが、もう半世紀以上前の1961年、まだ海外旅行が一般的ではなかった時代、バックパッカーとして世界旅行をした小田実が、その海外での体験を「何でも見てやろう」という本にし、ベストセラーとなりました。

小田氏の旅行は駆け足でのもので、それぞれの国に長期間滞在したわけではありません。
それでも多くの人の興味を引く紀行文が書けたのは、逆に短い滞在であり、それゆえにすべてが好奇に満ちたものとして捉えられたのも一因と思われます。

自分は本を読む時は、大切なところにラインマーカーを引いたり付箋を付けたりしながら読んでいます。
けれどこれは最初に読む時でなくてはなりません。
たまたまその時手元にマーカーがなく、二度目に読む時に大切なところに印を付けようと思っても、二度目はかなり意識しないとポイントが分からなくなってしまいます。

これは人間の脳は怠惰な性質を持つがゆえ、一度目に入れたものは流して読もうとする習性があり、大事なところも素通りし、見逃してしまうからです。
脳のパワーは絶大であり、消費エネルギーも大きいので、既知のものには過去のデータに基づくパターン認識で処理し、省エネ運転しようとするのです。

ですから最初の体験というのは特に大切です。
ここで半紙に墨汁が染まるように、パターン認識のパターンが形成されます。

 

何事も体験することが大切です。
そして能動的な体験により、受動的な感覚が養われます。
まずは正しいアクション(能動)を身に付け、それに習熟することです。

そのものの見方、印象というものは、最初の体験が特に大切です。
人間でも『第一印象が大切』とよく言われます。
最初に受けたインパクトは強烈であり、そこから受けた印象はなかなか拭い去れません。

 

自分は英語の学習も、その習熟方法を探ること自体が、一種の心理学的、社会学的考察であると考えています。

この世はすべてフラクタル(自己相似形)であり、一事が万事で、知ること、体験することは喜びです。