トイレ掃除の十年

今日は年に一度、世界遺産宮島の公衆トイレを掃除する大きな会がありました。
「せっかく宮島を訪ねたけれどトイレが汚くて・・・」という新聞に載せられた投書を受け、2009年に始まって今回で十一回目、初回からちょうど十年が経ちました。

自分がトイレ掃除活動を始めた最初の年の夏にこの宮島のトイレ掃除も始まったので、自分のトイレ掃除活動歴も今年でちょうど丸十年を迎えたこととなり、感慨ひとしおです。

宮島の掃除には、茨城に出張していた昨年、インドに滞在していた五年前の二回欠席しただけで、ほぼすべてで何らかの形で運営に参加させていただきました。

トイレ掃除の日はなぜか晴れることが多いにも関わらず、今日の宮島は朝からずっと雨模様という宮島の会始まって以来の悪天候で、毎年照りつける太陽に熱中症の心配をしていたのが嘘のようです。

これまで掃除をしてきたトイレ、主に公衆トイレはのべ数百ヶ所になります。
地元広島をはじめ各地の出張先のトイレ、インドでも何度か部屋のトイレを磨かせてもらいました。

その間いろんな事を感じてきました。
特に最初の数年は、明らかにトイレ掃除によって導かれた奇跡のような事と出合ったり、心の中の大きな変化を手応えとして感じ取ることもありました。

今ではトイレ掃除で一心に便器と対峙するのが当たり前のようになったものの、やはりそのたびごとに清々しさを感じ、便魔の汚れと同時に心の中の何かも洗い流してくれるのを感じます。

特にその喜びを感じるのは夜お風呂に入った時ですね。
その日懸命に使った手脚を手のひらで擦りながら磨いていると、掃除をしたことの充実感とともに、これまで以上に身体もピカピカに磨き上げられているような、そんな爽快感を覚えます。

この快感を知っているからこそ、どこに行ってもその場所の汚れている所を磨きたくなってくるのです。
そしてそれは100%自分のためであり、こんな素晴らしいリフレッシュ方法を知っていることに大きな喜びを感じます。

トイレ掃除をするようになったこの十年間で何が変わったのか、それを今あらためて考えてみても、なかなか言葉にするのは難しいものです。

ひとつ確実に言えるのは、公衆トイレの便器という汚いものを磨くことが当たり前になり、汚れ仕事や下坐行と呼ばれるものを抵抗なくできるようになったことです。
トイレ掃除に勝る下坐行ないと思います。
いい心の訓練をさせていただいています。

さらにはその汚れを肯定的に受け入れられるようになったことです。
汚れは放っておいても自然とつくものです。
だからこそ定期的に掃除をさせてもらうことができます。

先日、広島の平和記念公園で路面にこびりついたガム取りをしました。
公園内の最もメインである慰霊碑のすぐ近くでも吐き捨てられたガムの跡があります。
そしてそれをキレイにさせていただけるというのは。本当に尊く有り難い行為だと思います。
ですからそのガムを捨てた人に対して怒りも恨みもありません。
逆に有り難みを感じるほどです。

そしてそう感じることのできる自分に喜びを感じます。
これは実践を通して少しずつそうなっていきました。

けれどすべての汚れに対してそう感じられるかというと、決してそうではありません。
広島市内の川沿いには緑豊かな散歩道がたくさんあり、そこを通っていると、弁当ガラやペットボトルが投げ捨てられているのをよく見かけます。
そんな時にはその公衆道徳のなさに怒りを感じます。

またたまたま立ち寄った公衆トイレに空き缶が放置されていたり、小便器の中にガムや吸い殻が捨てられているのを見かけると、やはり情けない気持ちとともに憤りを覚えます。

なぜ平和公園のガムは許せても、道端やトイレのゴミは許せないのか、今日初めて深く考えてみて、平和公園のガムは定期的に自分が掃除することでキレイにすることができても、街中のゴミはそのすべてを自分一人で処理することができず、この「自分でどうすることもできない」という不全感から、それらを許容することができないのだと思います。

ですからこれは、一種自分に対する怒りだと言えるかもしれません。
このことはこれからの自分の課題です。

トイレ掃除から何を学んだのか、なかなか気の利いた言葉が浮んできません。
やはりこれは言葉で語るものではなく、己の身で感じ取るものなのでしょう。

トイレ掃除について語るときに必ず言う言葉です。

トイレ掃除を長く継続して行う必要はありません。
そしてそうしている人が立派だということもありません。
ただトイレ掃除、特に誰が汚したか分からない、自分が掃除する義務のないトイレの汚れを磨くことは、とても大きな気づきを与えてくれます。
ですからまだ一度も外のトイレ掃除をしたことのない方は、是非一度だけでもいいので体験してみてください。

深く物事を知るには体験してみることが一番です。
そしてそれ素晴らしいと感じるか、そうでないと感じるか、いずれにしても、その実感したこと、それ自体が宝です。