昨日からここインド最南端の町は強い風が吹いています。
窓を開けていると木の葉が部屋に入ってきて、涼しいのは有り難いですが、食べ頃を迎えたマンゴーの実もだいぶ木から落ちてしまいました。
(落ちたマンゴーもピクルスなどに活用できます)
今朝朝食の席でスギルタンが「今日もいい天気だ」と言っていて、人によっていい天気の基準は違うものなのだということをあらためて知りました。
この風は「アンファン」と名付けられた大型のサイクロンのようです。
今回のサイクロンはかなり大型で、進路からかなり離れたここでこの強風なのですから、直撃を受けたところは相当の被害が出るかもしれません。
コロナ禍が収束していない今の状態で、・・・とにかく無事通り過ぎてくれることを祈るだけです。
この時空を律する三大法則のひとつがフラクタル(自己相似形)であり、その性質を示すものは身の回りに数限りなく存在します。
その最も基本的な形が遺伝子DNAの二重らせん構造で、大きくは歴史の流れや気象の移り変わりなど、様々なところで見ることができます。
この時空の形あるモノで、永遠不滅、まったく形を変えることのないものは何ひとつありません。
すべては周りのモノとの共生関係を持ち、時の流れとともに形を変え、食物連鎖のようにひとつの流れの中で循環を繰り返しています。
その循環の流れは時の流れをひとつの座標軸とすると、二本で構成されるDNAの一本の鎖のように表せます。
人間のこの世の生は一度きりのものなのか、何度も輪廻を繰り返すものなのか、これは宗教によって考え方に差がありますが、自分は自らの体験と、他のすべてのものが循環を繰り返す中で自然の一造物である人間の輪廻のみを否定するのは極めて不自然だと考え、輪廻は確実にあるものと信じています。
上の曲線(サインカーブ)でいうと、X軸を挟んで上下どちらか片方をこの世、もう片方をあの世という形で循環していると考えられます。
輪廻はたぶん数百年単位の循環になるのでしょう。
そしてこれとまったくフラクタルな形であるのが睡眠サイクルです。
輪廻が数百年サイクルであるのに対し、睡眠のサイクルは1日24時間で、輪廻でのこの世が目覚めている時間、あの世が寝ている時間に相当します。
寝ている時はたいてい夢を見るものですが、目覚めると急速に記憶から消えてしまいます。
これも輪廻とフラクタルであり、ほとんどの人は前世の記憶は持っていませんが、ごく少数の人は記憶を持ち、ようやく言葉が話せるぐらいになった幼子は、二割、三割といった高い割合で前世の記憶を持っているようです。
昨年出会った広島の若い女性は、あの世にいる時に、自分のお母さんを自分で選択した記憶がハッキリあると語っておられました。
この陰陽を繰り返す循環の流れは、スケール(大きさ)を変えていっても同じです。
学生でも社会人でも、一年中学校に行って勉強したり会社で働いているわけではありません。
一年という流れで見ると、学校では長期休暇が三度あり、社会人でもお盆やお正月、G.Wにはまとめて何日間かの休みを取ります。
一週間単位では土日がお休み、一日の中では学校や会社にいる時間は限られていて、その中で昼休憩や小さな休みを何度も挟んでいます。
つまり活動と休息、この陰陽の流れはどんな大きさに切り取っても陰一色、陽一色ということはなく、すべてのスケールに陰陽両方とも含まれているということです。
これを『陽中に陰を含み、陰中に陽を含む』と言い、
絶対的陰、あるいは絶対的陽であるものは、なにひとつない。
すべてのものは程度の差こそあれ、両性合わせ持っている。
陰と陽で述べている時空の絶対的真理のひとつです。
男女ともに運気の変わり目とされる厄年というものがあり、厄年には多くの厄災が降りかかるとされています。
これは先のフラクタルに当てはめると、厄年から厄年までの間が活動期間、厄年が休息期間で活動を控える時と解釈することができます。
休憩期間、これは別の言葉で言うと整理やまとめをする時間、あるいは冬季の植物のようにしっかりと目に見えないところで根を張る期間と言えるでしょう。
この世にあるものはすべて役割を持っていて、本来的にそこに善悪はありません。
花を咲かせ実りを讃えている時がいい期間で、葉を落としている時が悪い時などということは絶対になく、その時々で働きが異なるということです。
特に現代人はいつもがむしゃらに動きすぎです。
ですから時には動きを止め、頭と体を休め、これまでのことを振り返りつつ整理をする厄年のような期間が必要なのです。
ここロックダウン中のインドにいて、今の最大の楽しみは読書です。
日本にいる時はネットばかりでなかなか本を読む機会がありませんでしたが、ここでは必要に駆られて電子書籍と親しむようになり、特にここ一週間ほどは毎日一冊以上のペースで本を読んでいます。
興味というものは進めば進むほど広がっていくもので、一冊読めばまた新たな別の本が読みたくなるといった具合に、読書欲求は留まるところを知りません。
けれどこれまで読んだ本を振り返ってみて、価値ある本だと感銘したものでも、本当の意味で自分の身になっているかと問われたらハイとは答えられません。
悪く言えばただ情報を消費しているだけといった感じです。
英語の学習は身に付けなければ何の意味もないので、愛用のテキストは少なくても数十回、多くて数百回は繰り返し読んでいます。
一般の書籍も同様に、良書と呼べるものは何度か読んで要点を身に付けなければいけない。
今日々新たな本と触れる中でふとそう感じるようになりました。
けれどどんどんと新たな知識を入れるのは快感です。
ですからいったん立ち止まるのは少し勇気のいることで、これは読書に限らずすべての分野で同じでしょう。
なのでその立ち止まるキッカケをつかむため、今日は厄年と絡めて今自らの読書に対して感じていることを書きました。
すべてのものには波打つ活動と休息のリズムがあり、それを感じ取って自ら実践するのが知恵であり感性というものです。
活動と休息のリズム、もっと簡単に言うとメリハリということです。
メリハリのないドラマは見ていて面白くありません。
ハレ(非日常)とケ(日常)が明確にあるのが豊かさです。
陸上のハイジャンプや幅跳びでも、最初から全力で助走をしたら高く遠くには飛べません。
このたびのコロナ禍も、そのメリハリをつけるためのひとつの手段として捉えるのも良策です。
事実リモートワークの推進等、コロナ禍によって確実に社会のあり方は変化を遂げました。
コロナ禍は人類にとって大きな厄年のようなもの、これをどのように生かすかが、人類全体に与えられた使命です。
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