前項「しなやかに生きる」を書いてから、しなやかさとは何なのか、そのことに思いを巡らせました。
ひとつは、しなやかな状態とは、周りにいる相手や状況に素早く合わせられることでしょう。
それはまさに水の如く、ブルース・リーの説く「Be water, my friend」(水のようになれ)です。
しなやかさの対極は固さです。
心身ともに凝り固まっていれば、自らの形を変えることができません。
どんな物事にも先入観なしに幼子のような心で捉えるためには、心を無にしなければなりません。
これは宗教的な言葉で言うところの空(くう)なのかもしれません。
無にする、空になる、概念的には難しいですが、簡単に言えば心の中に渦巻く感情を手放すということです。
この感情を手放すということについては、このホームページでも何度も書いてきました。
結局のところ、感情という最も身近な心の問題に対処することが、最も本質的な心の追求への王道だということです。
しなやかなものというと、実りを讃えた稲穂を思い浮かべます。
豊かな実りを頭(こうべ)に讃えながらも、しなやかな茎を持つ稲穂は強い風にも耐え、茎をしならせながらそれを折ることなく命を保っています。
もしその茎がより硬かったとすると、茎が受ける衝撃は直接根に届き、少しの風でも根はその圧力に屈し、地中から抜け出てしまうでしょう。
つまり真の強さを持つ稲穂とは、しなやかな茎と強靱な根を持つことで、これは武道の世界で言うところの『上虚下実』、上半身の力を抜き、下半身に力を充すという心得とまったく同じです。
すべてのものに通じる生命を探究するようになって三十年、その間生命の持つ偉大さ、関連するすべての世界の美しさに何度心動かされてきたことでしょう。
この上虚下実も同じです。
咀嚼回数を増やすことによって腸がより健全になり、肉体的感覚も意識も、ともに身体の正中心に沿ってより低い位置に移動してきたということを先に述べました。
これはまさに上虚下実の下実の状態の礎が築き上げられるということです。
下半身、腹(肚)に気が充ちたなら、次は上半身、頭の中が無になるように心がけるということです。
この下実の状態は、ほぼ肉体的感覚と言えるもので、思いだけで変るものではありません。
いつもだらけた姿勢で背骨を曲げ、床に座り込んでいる若者に、いくら涙が出るような感動的講話を聞かせたところで、その瞬間から姿勢を正し、その状態を維持することはできません。
頭(脳)から背骨を通ってお腹(腸)に至る循環系がキチンと構築されていない肉体では、この下実を現わすことはできません
それに対して上虚はより精神的な状態です。
頭(脳)の中を無にするということ、これは心の持ち方を意識することで実現可能です。
人間の五官の内の四官は頭部にあり、その頭部の中にある脳は、そこだけで自己完結可能なのです。
しなやかさとは、肉体的強さと精神的透明感の上に成り立っています。
咀嚼や腹式呼吸、体幹トレーニングで肉体を鍛え、セドナメソッドやタッピングで感情を手放し、よりしなやかな生き方を志します。
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