結果論と検証論

占い

近年、特にネット上での言葉の乱れが目立ちます。
中には誤字を意図的にファッションのように使っているものもあり、変化や進化は受け入れますが、退化しているものは緩やかな日本文化の崩壊であると危機感を抱きます。

言葉はその民族が持つ基底文化のひとつです。
元来農耕民族であった日本人の持つ日本語は、強靭な足腰によって低音域に豊かな響きを持つ母音を中心に構成されていて、言語文化はその国の食文化、身体文化、生活すべての文化と密接に関わっています。

 

今朝は大阪で行われた専門家会議の動画を見て、そこでの意見に対して言葉の使い方を誤ったコメントが何件かあったので、それについて述べたいと思います。

この会議で二人の専門家(学者)が、
「緊急事態宣言は効果がなかった」
という意見を述べています。

この意見に対するコメントの中で、「結局は結果論に過ぎない」という批判的なものがいくつもあり、それにとても違和感を覚えました。

結果論とは、『原因・動機などを考えずに、物事の結果だけをみて行う議論』であり、結果がよければその前段階の原因・動機をすべて肯定し、逆の結果ならすべてを否定するというものです。

もし緊急事態宣言を出す段階で明らかに効果がないと分かっていたならば、それは批判されるべきですが、宣言発令当時はまったく分からなかったのですから、行政は批判されるべきものではありません。

また二人の学者が「緊急事態宣言は効果がなかった」という結論を導けたのも実際に緊急事態宣言を発令したからであり、会議ではその結論を述べているだけであり、行政を非難しているわけではありません。

ここでは「後出しジャンケン」のように結果論でもって非難しているのではなく、そこから導かれた結果を今後に生かすべきだと述べているのです。

二人の学者が述べる「緊急事態宣言は効果がなかった」というのが本当に正しい意見かどうかは分かりませんが、ある一定数以上の人たちの調査から導かれたものであるならば、正しい結論である可能性が大きいでしょう。

つまりこれは「結果論」ではなく「統計的検証論」と言うべきものです。

 

結果論という言葉は耳にすんなりと入ってきやすいので、ついつい騙されてしまいます。

耳という言葉で併せて言うと、よく「耳ざわりがいい」という言葉を目にしますが、これも誤用の典型例です。
“耳ざわり”とは“耳障り”のことで、それ自体で「耳に心地よくない」という意味になり、これに“いい”という肯定の言葉を加えるのはおかしいのです。

これはかなり幅広く用いられていて、音のプロである音楽評論家でも「耳ざわりがいい」という言葉を使っておられるのを見たことがあります。

 

毎日インド人に日本語を教えていて、日本語の美しさ、奥の深さ、そして難しさを感じます。
Amazonのkindleストーアーで安価な電子書籍を買うと、必ずと言っていいぐらい誤字・脱字が見つかります。

日本語は奥深いものであるがゆえに日本人的感性に沿った幅広い表現が可能であり、言語の乱れは感性の乱れともつながっていると感じます。

 

もうひとつ以前から気になっていたのは“統計”という言葉です。

自分は占いに頼るタイプではありませんが、過去の経験から運命には知られざる流れや法則性があり、真に正確性のある占いはその人の運命をかなりの確度で予測できるものと信じています。

だからと言って、巷の占いすべてが信憑性があるとは思いません。

占いを否定する人の中に、「占いなんて単なる統計学に過ぎない」と言われる方がいますが、この発言もまったくもっておかしなものです。

占いを観る元となるものは、その人の生年月日、名前、血液型、手相等本来運命を左右するとは考えられていないものばかりです。

もしそれらが運命とはまったく関係しないのであれば、そこから何かの傾向を導くことは絶対に不可能です。

コインを投げて表と裏の出る確率を求める時、試行回数が十回程度であれば、表か裏のどちらかに偏る確率は大きくなります。
けれどその回数を百回、千回、1万回と増やしていくと、そのコインが変形していない限り、表裏どちらの確率も限りなく50%へと近づいていきます。

 

もし星占いで、「学者は蟹座の人が多い」、「プロスポーツ選手は射手座の人が大成する」といったことが導かれ、実際それが統計的に証明されたなら、それは未知の法則性が示されたことであって刮目すべき事実です。

また逆に占いがまったくでたらめのものであったなら、そういった傾向の偏りというのは絶対に現れません。

占いが統計学と結びつけて考えられるとは、ものすごいことなのです。

占い

 

結果論も占いも、言葉というより論理の問題ですが、この論理の乱れも言葉の乱れにつながっているように感じます。

最近は(以前から?)日本の最高議決機関である国会でも、この程度の言葉や論理のやり取りで与野党が責任論や揚げ足取りに終始しているのは情け無い限りです。

日本の基底文化をもう一度学び直す必要がありますね。