平穏な日々

リサ

チェンナイのホームではネットがほぼつながらず、たまにメールの受信やSNSのメッセージが届く程度です。
ホームにある自転車やバイクは壊れたままで、町まで歩くと一時間はかかります。
それでも一度徒歩で挑戦していると、バイクに乗った親切な男性が町まで乗せていってくれました。
考えてみると、今まで同じように長距離を歩いていて最後まで歩き通したことがありません。
必ず親切な誰かに助けてもらっています。
インド人は人を騙す悪い奴も多い代わりに親切な人も多いのです。

ネットがつながらない環境はホームから徒歩20分圏内だけのようで、そのことは朝夕子どもたちの送迎バスに乗りながら確認しました。
その圏外には親しく話したこともある雑貨屋があり、そこまで歩いて行きそこでネットをしようと考えていたら、ホームのオーナーのスレッシュから
「外国人が一人で店の横で座ってネットをしていると怪しい人間だと疑われ地方警察に通報されるからダメだ」
と言われてしまいました。
自分のいるところはインドでも田舎ですから⋯。

壊れたままと言えば、泊まっているゲストハウスの天井扇も速度調整ダイヤルが昨年から壊れたままです。
止めるか最強にするか二つにひとつ、風を最強にすると蚊が近寄ってこないのはメリットですが、それではさすがに風邪をひいてしまいます。
実際最初の二日間はそうして少し鼻声になってしまいましたが、インドの食事はパワーがあるお陰ですぐに回復してしまいました。

本当は最強の風の下、シーツを頭から被って寝るのがいいのですが、慣れていないのでなかなかできません。
なのでベットの位置を天井扇の下から少しずらして問題解決です。

 

チェンナイホームでの日常は、これまでとまったく変わらない淡々とした日々です。

チェンナイホーム チェンナイホーム

午前5時半、大きな音で音楽が鳴り出して子どもたちは目覚めます。
そして朝の支度をし、6時からは礼拝室で約30分ほど礼拝をし、その間外は少しずつ明るくなってきます。
礼拝の後は掃除、洗濯、水浴び、着替え、そして食事です。

それらがすべて終わったら、ホームの隣にある英語で授業をするイングリッシュミディアムの学校の子どもたちは徒歩で、タミルミディアムの子どもたちはホームのバスで学校に通います。

チェンナイホーム チェンナイホーム

インドのホームにいる素朴で純真な子どもたち、たぶん自分が生まれた頃、昭和30年代の日本の子どもたちも同じような感じだったのではないかと思います。
その彼らの全身で生をまっとうする姿から、これまで生きる喜びや大切なものをたくさん学ばせてもらってきました。

彼らは自分にとって鏡のような存在です。
子どもたちの圧倒的パワーを受け取るのは喜びであり、それと同時に負担となることもあり、己の心の醜さを彼らを鏡として見せつけられることがこれまで何度もありました。

男の子と女の子、日本でいえば小学校に入学したてぐらいのちびっ子から高校生になったぐらいの子どもたちまで、性格も様々であり、とても親しみやすい子どももいればそうでない子もいて、そういった子どもたちといつも変わらない接し方をするのは難しく、その自分の心の不安定さにいつも反省させられてきました。

今回一年ぶりにホームの子どもたちと接し、自分の中の変化を少し感じ取ることができました。
まだ100%理想とはいきませんが、以前よりいくらかはゆとりを持って接することができるようになったように感じます。

何気ない日常、それを淡々と過ごせることの喜び、豊かな自然の中で人間として最も大切な感覚が湧き上がってきます。

日常の中にこそ喜びがある、数年前ここで感じ取ったこの真理が、より深く心に響きます。

 

けれどその“日常”は、自分にとって非日常の中の日常であり、子どもたちはそれをどのように感じているのでしょう。

スレッシュの家の前で二人の女の子がテキストブックを広げ、インド地図を見ながら何か講義を受けていました。
その時たまたま背中のバックに大きな地図を入れていたのでそれを広げて見せてあげました。

インド地図

彼女たちは普段ホームでの学習時間は熱心にテキストに目を通している真面目な女の子たちですが、彼女らにインドの首都デリーや有名なタージマハールの場所を聞いても即答することができませんでした。

黄色い服を着た子はリサといい、とても瞳が美しくて素敵な笑顔を持った人柄の良さを強く感じさせる女の子です。

リサ

彼女に同じタミルナド州最南端のカニャクマリやすぐ近くの隣の州ケララに行ったことがあるかと聞いても、どちらもノーでした。

スレッシュによると、ホームにいる子どもたちは、ほとんど自分の村と学校、ホームぐらいしか知らないとのことです。
彼女たちにとって首都デリーやタージマハルは名前は知っていても、たぶん生涯行くことのない最果ての地なのでしょう。

 

ホームの子どもたちの日常は、選ぶことのできない、逃れることのできない日常です。
その日常から逃れることを願い、非日常を求めた結果が文明であり、その文明の行き着いたひとつの姿が除菌・滅菌・清潔を徹底し、ずさんな危機管理でウイルス騒ぎで国難とも言える状態になっている日本であるような気がします。

今大変な状態にある日本を外から悪く言うのは気が引けますが、インドでは日常生活を送った手をそのまま洗うことなく手づかみで食事をとり、食器の洗い方も日本の常識と比べると極めてずさんです。

そのインドから今の日本、あるいは中国を見て、ウイルス騒動は爛熟した文明の終末期を象徴して見せてくれている気がします。

 

日常に喜びを見出すとは、最も簡単で最も難しいことかもしれません。

けれど今は原点回帰の時だからこそ、それを求めなければならないと強く感じます。