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全体主義への道

独裁者のブーツ

地元広島ではいくつかのグループと関わっていて、そのほとんどはコロナの真実を理解しているので、仲間と集う時はまったく意味のないマスクを着ける必要はありません。

ただその中でもいまだコロナ脳に冒されているところがあり、先日いただいた会合案内の中に「マスク着用」「鼻マスクお断り」の文字が記載されていたので、都合によりということで参加を見合わせました。

これまでマスク未着用で注意をされたことは二回あります。
一度は公民館のようなところで知り合いとミーティングをしている時、そこの職員の方にマスク着用、しかも鼻をしっかりと覆うようにと注意されました。
けれどそれはお願いであって義務ではありません。
ですからその時は自分たちの主張を述べ、マスクを着けることは拒否しました。

もう一度はマックで知り合いと話をしている時、帰り際の客から長時間マスクなしで話をしていることについて注意を受け、その方はそのまま店外へと去って行かれました。
その方はメディア報道を見て、日常的にマスクをすることで多くの人が幸せになれると信じておられるのでしょう。

 

自分は外を歩いている時は基本的にマスクはしません。
けれどポケットの中にマスクは携帯していて、スーパーなど人の多い施設内では着用することにしています。
ただし洗濯可能なスカスカのウレタンマスクで、それを上下逆さまに着け、しっかりと鼻呼吸ができるようにしています。
それでも口元を拘束されるのは心地いいものではありません。

マスクは奴隷の証

自分は長年呼吸法をしているので、日常の呼吸は100%鼻呼吸です。
ですから口元にマスクをしていても会話をしない限り何の効果もありません。

会話の際の飛沫拡散防止効果はありますが、そもそもウイルスの大きさはマスク繊維の編み目の数十分の一ですから、飛沫の拡散だけ防いだところで意味がありません。

日本が誇るスーパーコンピューター富岳による飛沫拡散シミュレーション画像が一時期広まり、『飛沫拡散は恐ろしい』というイメージが日本人の意識に染み込みましたが、あの拡散の様子を描いた画像は事実でも、飛沫の拡散が恐ろしいというのは科学的根拠に基づかない単なるイメージです。
飛沫がコロナ感染の大きな要因だとするエビデンスはありません。

日本人は穢れを嫌う潔癖症ですが、それはメリットばかりではありません。
マスク着用の常態化は脳の酸素欠乏を引き起こすだけでなく、様々な菌と接触する機会を奪い、今後アレルギー症状を抱える人の増加が予想されます。

人間は愛する人と口づけを交わします。
なぜ口づけに性的興奮を覚えるのか、それは口づけや肉体的接触によって他人の飛沫や体液を取り入れ、免疫力を高めたいとする本能の求めるものです。

消毒、無菌が絶対善ではありません。
赤ん坊がいろんなものを口に入れて舐めるのも、子どもが泥んこ遊びを好むのも、生物的本能に基づく理由があります。

自然から隔離され、行き過ぎた潔癖志向によって今の日本人は五感が麻痺しています。
洗濯の時に使う芳香剤、部屋や衣服に振りまく除菌・芳香スプレー、あの香りを心地いいと感じるのはその証です。

 

人間は論理ではなく、感情やイメージに基づいて判断、行動します。
メディアはそれを上手く使ってイメージ操作するので、その手法と自身の思考にどのようなバイアス(傾向、偏向、先入観)がかかっているのかを知っておく必要があります。

三密回避、ソーシャルディスタンスと言いながら、日々の満員電車でクラスターが発生しないのは、メディアによるとほとんどの人がマスクをしているからなんだそうです。
ならばコロナが恐ろしいと感じる人だけが感染防止に効果があるとされ、ウイルス素通しのマスクをしていればいいのではないでしょうか。
季節性インフルエンザよりも桁違いに死者、感染者の少ないコロナ感染防止を名目に、他人にそれを強要するのはパワハラです。

 

そもそもクラスターという言葉自体がイメージ操作のために作り上げられたものです。
風邪でもインフルエンザでも、周りの人にうつすからこそ感染症です。
これまで風邪が流行ったりインフルエンザで学校閉鎖になった時でもクラスターという言葉を使うことはありませんでした。
それがなぜエセ・コロナ禍になって急に使われるようになったのでしょう?

風邪をうつされた、何人かがインフルエンザにかかった、集団感染、・・・これらとクラスター発生という言葉、どちらに恐怖を感じますか?

たぶんほとんどの方は「クラスター発生」の方に恐ろしさを感じるでしょう。
それはクラスターという言葉がこれまで聞き慣れていない新しいものであり、音義的にもクラッカー、クライシスといった危機的、破裂的な言葉とつながるからです。
また「く」は苦に通じ、くくる、くむといった凝り固まったものを意味し、それが「ら(裸)」や「す(素)」へと続き、「たー」という勢いよく広がる長音で締められています。

つまりクラスターの言霊的に意味し連想させるものは、
『苦しみを生むものが素のままの状態で広く拡散する』
というものなので、その言葉を耳にしただけで無意識的恐怖を感じるのです。

 

ここで何度もお伝えしているように、新型コロナウイルスに対する最も重要で基本的なこと、しかしメディアでは隠蔽してほとんど(一切?)伝えない情報として、PCR陽性者は感染者とは異なるということがあります。

大阪府・吉村知事が定例会見1月13日(全文6完)陽性者イコール感染者ではない 柳ヶ瀬裕文参院議員の質疑

しかも日本のPCR検査における高いCt値(増幅回数)では、偽陽性率97%以上という結果がアメリカで査読付き医学論文として発表されています。
Assessment of SARS-CoV-2 RNA Test Results Among Patients Who Recovered From COVID-19 With Prior Negative Results | Pathology and Laboratory Medicine | JAMA Internal Medicine | JAMA Network

またオックスフォード大学の研究でも、Ct値35で偽陽性率97%という同様の結果が出ていて、日本は検体を混合するプール検査以外はCt値40~45と35以上の高い増幅回数であり、やはり偽陽性率97%以上と考えるのが妥当です。
Correlation between 3790 qPCR positives samples and positive cell cultures including 1941 SARS-CoV-2 isolates. Clin Infect Dis. 2020 Sep 28 : ciaa1491.

 

風邪やインフルエンザを人にうつしたというのは、実際にそのウイルスが周りの人の体内に入り、感染し、そして発症したということです。
対して新型コロナウイルスのクラスター発生は、喉元に新型コロナウイルスの断片、しかもそれが活性化しているかどうかも分からないものが数個発見されたということで、感染、発症に至っていない率が極めて高いものです。

花粉症でない方が、花粉を吸い込んで喉に数個付着しているのが検出されても、それで花粉症の感染者とはなりません。
ところがコロナでは、同様の状態で感染者、ひどい時には患者としてメディアで大々的に報じられます。

また新型コロナウイルスは、いまだその存在証明すらなされていません。
それをWHOが「これ以上Ct値を上げても意味がない」とするCt値35を大きく超える増幅回数で検出を行い、その結果を基に「○○市でクラスター発生、○名の感染者を確認!」などと騒ぎ立てているのが現状です。

このことを理解すれば、いかにクラスターという言葉が無意味であるかがお分かりでしょう。
メディアのこのようにPCR陽性者を感染者と偽り、クラスターという扇情的な言葉で国民の恐怖心を煽り続けるのは極めて重大な犯罪行為です。

完全に放置状態の放送の公平性を規定した放送法第四条は別として、虚偽報道の意図を明確に証明できなければ、厳密には犯罪とは呼べないかもしれません。
けれど道義的には極めて重い罪であると考えます。

そしてその重罪行為を放置し続けている国民の側にも責任の一端があります。

 

話を元に戻しますと、自分がマスクを着けないのは、それが無意味であるということ、着けるのが不快だということともに、もうひとつ大きな理由があります。

それは先の画像にもあったように、マスク着用は奴隷の証であり、マスク着用を日常化させることによってコロナに対する国民の恐怖心を維持、増幅させるのが目的と考えられること。
そしてそれが最終目的であるワクチン接種による大量殺戮へと向かわすための重要手段だと考えるからです。

つまり、マスク着用はエチケットではなく、
『マスクを着けることは、他人の生命を奪う行為に荷担すること』
だと考えます。

 

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