月に一度、街の公衆トイレを掃除する活動を続けて十年以上になります。
その間いろんな事を学び、『トイレ掃除は心磨き』この言葉の意味を実感するとともに、トイレ掃除活動と出合えたことに喜びを感じています。
掃除の実践はまず身近なところから、それをなぜ、あえて掃除をする必要のない他人が汚した公衆トイレを磨くのか、それは言葉で答えを導くのではなく、自ら体験する中で感じ取るものです。
長くトイレ掃除活動を続けていると、よく「立派ですね」「偉いですね」と声をかけられます。
けれど実際はそんなことはなく、ただ心地いいから、心が癒されるから続けているだけで、そこにあるのは自分自身への思いであり、地域社会のため、使う人たちのためといった気持ちはほとんどありません。
自分は学校や公園といった公共の場にあるトイレを掃除したことのない人たちに対して、
「是非一度公共のトイレを掃除する活動に参加してみてください」
と強くお勧めしています。
それはやはり一度でも体験してみなければ分からないことがあるからです。
そしてそれに加え、
「一度体験したからといって、それ以降続けて参加する必要はありません」
という言葉も必ず添えるようにしています。
これには深い意味があります。
これまで多くの方とともにトイレ掃除を続けてきました。
その中には初めて体験をする方も多く、そのほとんどの方が掃除が終わった後の感想で、「感動しました」「とても清々しい気持ちです」といった喜びの言葉を述べてくださいます。
けれどそういった方たちでも二回目以降は続きません。
それはなぜなんだろう、掃除を始めた当初はそれがとても疑問でした。
掃除をして心地よさを感じるのはみな同じです。
けれどその深さが人によって異なります。
いわゆる普通の人よりも、心に何らの傷があったり、苦しみ、悲しみ、そういった悩みを抱えている人の方が、より深い心地よさを感じるようなのです。
それは心地よさを超えた癒やしの感覚といってもいいかもしれません。
具体的には書けませんが、実際に自分を含め、長くトイレ掃除を続けている人はそういった方が多いように感じます。
トイレ掃除活動はイエローハットの創業者である鍵山秀三郎氏の実践から始まり、今は「日本を美しくする会」という団体ができ、全国、そして海外にまで広がっています。
その中でもここ広島は特に活動がさかんな地域です。
それは1999年、広島の三大祭りであるえびす講で暴走族が大暴れし、それが全国ニュースにまでなり、その暴走族の子どもたちを更正させるためにトイレ掃除の実践をして大きな成果を得て、それを実際に目の当たりにした現場の警察官の方たちが今もトイレ掃除活動を続けているからです。
広島のトイレ掃除活動には、現職、OBの警察官、弁護士といった方たちが多く参加されています。
自分はその当時の暴走族の子どもたちの気持ちがよく分かります。
自分自身トイレ掃除をしていて、限りない心地よさとともに、心の中の不安や悩みが同時に消え去っていくように思え、目の前で磨いている汚れた便器が、あたかも自分自身の心であるかのような感覚ににまで入っていきます。
だからこそそういったものを抱えた人たちがトイレ掃除に集まり、そうでない人は、そこまで強くトイレ掃除に惹かれないのだと思います。
けれどそこでもうひとつ考えなければならないのは、トイレ掃除で感じる心地よさ、不安の解消というのは、本来の抱えている問題と向き合う代替手段であり、トイレ掃除がそれと直接向き合う力を与えるものにならなければならないということです。
広島での公衆トイレ掃除活動は、毎月第二土曜日の午前中に行っています。
最近出張が多く、自分は参加できない時もあるのですが、そこに昨年から上の「トイレ掃除の奇跡」の著者の一人で、元広島県警少年課係長の竹内光弘さんが参加してくださるようになり、竹内さんの紹介で広島の山陽高校の生徒さんたちが時折掃除に加わってくださるようになりました。
その掃除に参加してくれた生徒たちが書いてくれた掃除の感想文が今手元にあり、それを読むと掃除を始めた頃の初々しい気持ちに戻れるようで、これまでも書いてきたトイレ掃除についてのことを再び書こうという気持ちになりました。
<トイレ掃除感想文 山陽高校>
時には初心に戻るということは大切です。
そして戻るベースがトイレ掃除という素晴らしいものであること、これに出合えた幸せを噛みしめています。
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