断捨離の功罪

今はモノも情報も大量にあふれている時代です。
昔のように栄養失調で亡くなる人がほとんどいない代わりに、美食、過食の影響で、生活習慣病に苦しむ人が増えています。

つい最近知ったのですが、以前は成人病と呼ばれていたものを、それは成人に達したら自然となるのではなく、不摂生な生活を送った結果としてなるものだということで、生活習慣病と呼称を改められたのは、あの有名な故日野原重明医師だったのですかね。

日野原医師はよど号ハイジャック事件に乗客の一人として遭遇し、そこから生き方を改め、生活習慣病の提唱とともに、それまで西洋医学の概念にはほとんどなかった予防医療の考え方を医学界に広められたとのことです。

ハイジャック事件遭遇という死に瀕する体験をし、医学界のエリートへの道という執着を手放されたのです。

 

『経済というものは右肩上がりに発展しなければ人間は幸せになれない』ということが世界各国の共通認識となっている今、どこもかしこもモノはあふれる一方です。
それに対してそれを享受する人間は、五感の持つ能力は大昔から変わることなく、また知能は逆に低下しているという研究結果まで出ています。
<「人類の知能は上昇するどころか下がっている」という主張、その根拠とは?>

そんな状態なのですから、過食でメタボや生活習慣病になるように、本来人間の持つ処理能力を大幅に超えるモノ、情報に囲まれていると、それが原因で精神や生き方に何らかの不具合が生じるのは必然的なことです。

だからこそ、都会暮らしに疲れた人間が自然に還ることで心癒やされるのと同様に、あふれ返ったモノや情報を手放すことによって心が解放されるのもまた必然であり、断捨離は、止めどなく進む文明の流れに歯止めをかける安全弁のようなものと言えます。

 

この世はすべて相対であり、絶対的なモノは本来何ひとつありません。
断捨離もまた同様で、それが100%素晴らしいと言い切ることはできません。
ただ今は急速に物質文明が肥大化してきた時代なので、その逆を行く断捨離が価値を増しています。

増してはいてもそれはやはり相対的なものであり、『人間万事塞翁が馬』、ひとつの物事が最終的にどのような結果を生むかは分かりません。

断捨離もまた、これは絶対に残すべき、これは絶対に捨てるべき、というものは存在せず、大きな流れの中で、それが自分の生き方にどのような影響を与えるのか、それを感じて判断しなければなりません。

けれどモノ余り環境に長く生きてきている人間は、その大きな流れや本質をつかむ事が苦手です。
自分の許容量を超えたモノや情報があふれているのですから、それらの表面を見ることだけで精一杯で、とてもその奥にある本質的なところまでは目が届きません。

ですから表面的欲求を喚起さすことを主眼としたマスメディアが断捨離を捉えると、大きな過ちを起すことにもなりかねません。
今日目にしたニュースです。
<中居正広“断捨離”トラブルで日テレと決別か>

“断捨離”はいまや、新しい片付け術としてすっかり定着。やましたひでこ氏が提唱した言葉だ。

 番組では、昨年8月15日放送分でピン芸人のバカリズムが「男性用パンツの窓はいらない」と主張。同10月3日放送分では「ハリセンボン」近藤春菜が「アイスキャンディーの味の種類はたくさんはいらない」と訴えた。

“断捨離”を拡大解釈し、世の中にあるムダと思えるモノを“断捨離”しようという企画だったが、やました氏が提唱するのは「モノへの執着を捨て、身辺をキレイにするだけでなく、心もストレスから解放される行動技術」。番組で取り上げた内容は本来の意味とは異なっていたのだ。

 企画自体はこの2回でいつの間にか終了。その背景に“断捨離”の使用を巡って番組サイドとやました氏の間にトラブルがあったという。

 宣伝関係者の証言。

「やましたさんサイドがクレームをつけたというんです。それも当然。断捨離はやましたさんの登録商標です。断捨離は、やましたさんが学生時代に出合ったヨガから着想を得た言葉で奥が深く、精神世界にも通じている。言葉のイメージだけで使用してもらいたくないわけです。特に影響力が強いテレビに対してはその思いが強い。他局や出版界では常識だったこの“ルール”を日テレの制作陣は知らなかった」

 

こういうことは起こるべくして起こったという感じです。
モノへの執着を手放すべく行う断捨離が、逆にモノを捨てるというこにに執着心を持つような形になっては本末転倒です。

テレビのバラエティー番組は、本来どちらかと言うと、その番組自体が断捨離されるべき対象のものですので、そこで断捨離をテーマとしたコーナーを作ること自体に無理があります。

 

何を断捨離すべきか残すべきか、そこに明確な答えはありません。
それを決めるのは自分自身であり、それを行った結果、自分の人生にどのような影響を与えるのか、それを見つめ答えを導いていく必要があります。

ただやはり現代はモノ余りの時代であり、断捨離の益は大きく、自分の過去を振り返ってみても、過去大きな断捨離を何度か行ったことを後悔したことは一度もありません。

 

断捨離で大切なのは捨てることではなく、自分にとって何が大切か、それを見極めることです。
そしてその大切なものに意識の焦点を合わすため、他のもの、執着を手放すということです。

この『自分にとって何が大切か』それをしっかりと見つめることが、断捨離の極意だと感じます。

 

こんな新聞記事の切り抜きを目にしました。

いくら夫婦とはいえ、自分以外の人間の大切にしているものを勝手に処分するというのは言語道断です。
この方が断捨離すべきは夫の大切にしているものではなく、「夫のものも自分の思い通りにしたい」とするその思いです。

旦那さんがどのような大病を患っておられたかは分かりませんが、もしかしたらいつの日か快癒することを願い、再び料理ができることを夢として持っておられたのかもしれません。

だとしたら奥さんが捨てたのはバインダーではなく、旦那さんの夢そのものだったと言えるでしょう。

 

ここで相反する二つのことを思います。
その夢というもの、それを形として持つのがいいかどうかということです。

上の話でもし料理のバインダーが旦那さんの夢そのものであり、それを捨てられたことで生きる希望が絶たれたのなら、それは残しておくべきものだったのでしょう。

けれどこのような話もあります。
以前スマートだった人が年齢とともに体重が増え、昔の服が着られなくなりました。
そしていつか再びそれらの服が着られるようになることを願い、いつまでも昔の服を処分することができずにいました。

けれど思い切ってそれらの服すべてを断捨離すると、少しずつ体重が減り、以前のようにスリムになったということです。

ここでその人が手放したのは、「スリムになりたい」という夢ではなく、「今の太った状態は嫌だ」という、現在の自分を否定する嫌悪感だったのです。

 

夢の裏には往々にしてこのような嫌悪感が潜んでいます。
モノを大量に抱え込んでいる人の心の裏には、「身近なモノを手放したら、それらは二度と自分の元へ返ってはこないのではないか」という恐怖心があります。

どのようなものにも表と裏があり、それらをまとめて善悪一方、どちらかの価値を付けることはできません。
そして自分自身に関するモノやコトは、自分でしか価値を決めることはできないのです。

断捨離は自分にとって何が大切か、それを見定め、そのひとつの道を歩んでいくための有効な方法なのだと感じます。

『人間万事塞翁が馬』、「こうしなければ!」という執着を手放し、気楽に気長に歩んで行きましょう。