1995年に亡くなった母から無限に深い愛をいただきました。
その思いを12年後の2007年に書いたものです。
母が亡くなったのは今から12年前、阪神淡路大震災、オウムサリン事件のあった激動の1995年、その年の春に母は68歳の生涯を閉じました。
母が亡くなる前の年、年末に広島から実家のある奈良へ帰り、数日間過ごしました。
年が明け、広島へ帰る日に母は梅田(大阪)まで見送りで一緒についてきてくれました。
地下街を歩き、一緒にコーヒーを飲み、その後別れたのですが、その別れた時の寂しげな顔、それが記憶に残る元気だった母の最後の姿です。
愛情深い母は、不肖の息子私のことを最後まであれこれと気遣い、心配をしてくれました。
その時に母が最近片方の手の指が少し開きにくいとこぼしていたのですが、今思えばそれが脳の疾患の最初に現れた自覚症状でした。
広島に戻ってしばらくたった1月17日、阪神淡路大震災が起こりました。
母の実家は兵庫県西宮市、震度7の激震地帯です。
すでに生まれ育った家はないものの、思い出の町が廃墟と化し、多くの知り合いが被災し、母は連日ニュースで震災の模様を見ては涙を流していたそうです。
そんなことも脳に影響を与えたのかもしれません。
二月の下旬、脳にかげりがあり、検査、手術が必要とのことで、地元奈良の県立病院に入院しました。
母は病院から何度も電話をくれ、明るい声を聞かせてくれました。
私も水彩ペンで描いた見舞いのはがき絵を病院宛てに送り、母はそれを大事に枕元に飾り、同室の患者さんに見せたりしていたそうです。
私にできることは、遠い広島からただ母が元気で退院してくれることを祈るのみです。
けれども病状は思ったより進行していました。
3月3日、まだ手術の日程も決まっていない母の脳の血管が切れ、病室で突然倒れました。
すぐに手術が行われましたが、脳の出血による影響で生命の維持も危ぶまれる状態になってしまいました。
そのことを知ったのはその日の昼、当時はまだ携帯電話が普及しておらず、昼に自宅に電話を入れ、
そこに入っていた兄からの留守番メッセージで母の状態を知りました。
仕事を途中で放り投げ自宅へ戻り、すぐに奈良へ帰る準備をしました。
当時はまだ震災の影響で、被災地一帯が新幹線を含め鉄道路線が寸断されたままでしたので、飛行機のチケットを取り、広島空港行きのバスに乗り込みました。
バスの中でも飛行場でも、涙が止め処なく流れてきます。
愛情深く、料理でも編み物でも家事全般を器用にこなす働き者の母、多少過干渉気味のところはありましたが、私もそんな母に甘えて随分と苦労をかけました。
子供の頃はわがままばかり言って困らせて、社会人になってからも私の自由勝手な行動でどれだけ母を苦しめたか分かりません。
そんな母への罪悪感、後悔、悲しみ、様々な感情がわき上がり、本当に胸が押しつぶされそうでした。
これはまったくの偶然かもしれませんが、後になって、これが母の脳の危機を知らせる予兆だったのかもということがありました。
母が倒れる二日前の3月1日、広島市内の少し高台の斜面にあるマンション建設現場で、35トンという大型のクレーン車とともに作業をしていました。
見通しの悪い作業現場、乱暴なオペレーター(操作員)がきちんと安全確認をせずにクレーンを操作し、クレーンのワイヤーの先端にある重さ100キロほどの鉄のかたまりが、私の頭ほんの20~30センチわきを後方からものすごいスピードでかすめていったのです。
ヘルメットを被っていたとはいえ、もしあの錘が頭にほんの少しでも接触していれば、生半可な怪我ですむはずがありません。
頭部への危機という形での母からの「虫の知らせ」だったのかもしれません。
母が倒れたその日の夕方、病院の母のもとに着きました。
すぐに担当の医師と面談をし、頭部の断層写真を見せてもらいましたが、出血の範囲が広く元の健康状態を取り戻すことは不可能である、意識も回復するかどうか分からないという厳しい宣告を受けました。
予想していたとはいえ、本当につらく苦しく耐え難い宣告です。
面会時間外でしたが、静かに眠る母に会わせていただきました。
たくさんの医療機器に囲まれた集中治療室の中、ベッドに横たわる母の顔は元気だった頃とまったく変わりません。
しわしわになった手を握ると、ただ涙々です。
「お母ちゃんごめんね・・・ごめんね・・・」
このしわしわの手で私を大きくなるまで育ててくれたのかと思うと、感謝の気持ちとともに、それに対する恩返しができなかった自分への激しい罪悪感で胸が張り裂けそうです。
なんとしても再び元気になってもらいたい、多少障害は残っても命をとりとめ、残りの人生、私にほんの少しでもご恩返しをさせてもらいたい、願いはただこれだけです。
しばらくして仕事帰りの兄が車で病院にやって来て、実家の方に一緒に戻りました。
学生時代まで家族とともにそこで暮らし、社会人になってからも度々「我が家」として帰ってきた実家、しかしそこには元気な母の姿はありません。
「家」とはただ形ある建物そのものを指すのではなく、そこに暮らす人間の温もりがあって初めて「家」なのです。
冷え切った家の扉を開けると、そこに母がいないという現実を強く感じずにはおられません。
翌日から病院通いが始まりました。
朝、会社に出る兄の車に同乗し病院で降ろしてもらい、夕方、会社帰りの兄に車で連れて帰ってもらいます。
病院では、母のいる集中治療室のある脳外科のフロアーの待合室で時を過ごします。
そして午前と午後、二回の面会時間の間だけ母のそばに行くことができます。
L字型になっている病棟、待合室の窓から集中治療室の窓が遠くに見えます。
待合室にいる間は、窓越しに母の快癒を祈りました。
誰にでも心に信ずるものがあります。
その時私は三つの対象に母がよくなってくれることを祈り、願いました。
ひとつは空に輝く太陽です。
燦然と輝く太陽は命の源です。
待合室の窓からは昇る朝日をきれいに見ることができます。
窓の外、左ずっと前方に集中治療室の窓が見え、その右側を朝日が少しずつ昇っていくのを見ながら、毎日手を合わせました。
今でも太陽を目にすると、あの病院の待合室を思い出し、あの時、あの病院から見たのと同じ太陽が今も変わらず光り輝き続けているという当たり前の事実、「自然、生命の永遠性」に心打たれます。
二つ目は「天理王の命(みこと)様」です。
学生時代、熱心に天理教を信仰していた私の心のよりどころのひとつ、天理教の神様です。
病院から10キロちょっと離れた天理市にある天理教教会本部に向かって神名を唱えながら祈りを捧げました。
三つ目は京都の東寺にある大日如来像です。
空海が建立したといわれるこの像は不思議な力があるということを懇意にしていただいている風水師中村憲二氏から聞いていました。
周りでも様々な体験をした方が数多くおられ、私も数回足を運び、その神々しくも爽やかな雰囲気にとても心惹かれていました。
仏教における最高の存在、大日如来様のお力にもすがりました。
一日二回の面会時間には母の手を握り、一所懸命涙ながらに母に色々なことを語りかけました。
母のベッドの前には心電図、血圧、呼吸数を測る装置、たくさんの機械が置かれています。
その数値を見ながら
「お母ちゃん、ちょっと血圧低いよ。 もうちょっと頑張って血圧上げんといかんよ」
まずは数値の安定が第一です。そんなことを母に語りかけました。
すると不思議なことに数値が自然と安定してくるのです。
人間、意識がある時ですら、自分の意思で血圧をコントロールすることは難しいのに・・・。
担当の若い看護婦さんも驚いて、
「いや~、酒井さんのお母さん、息子さんが来てはるの分かっとられるみたいやね~。
息子さんが来はるといつも数値が安定しますね~」
と言ってくださいました。
他にも励ましの言葉、お礼、決意、いろんなことを語りかけました。
助かる見込みがないと言われた母、植物人間のままでもずっと母のそばにいたいと思った私は、自分の中の迷いや不安、そのすべてを母に語りかけました。
語りかけたというよりは、問いかけたと言った方が適切かもしれません。
そうすると本当に奇跡のようなことが起き、その問いに対するメッセージが返ってくるのです。
植物人間状態の母にも「意識」があり、そばにいる私を感じ、なんらかのメッセージを返してくれているのを感じるのです。
落ち込んだ気持ちで地下の売店に行くと、偶然高校時代の友人と出会いました。
家に帰ると、兄が私を励まそうと近くのトレーニングセンターに誘ってくれます。
落ち込んでいる私はそんな気持ちではなかったのですが、行ってみるとそこでも知り合いの女性と出会い、楽しい時を過ごすことができました。
いろんなことがあったのですが、身の回りに起こるすべてのことに何か落ち込んでいる私を励まそうとでもするような「母の意志」を感じるのです。
言葉では表現できない感覚的なものですが、孫悟空が筋斗雲という雲に乗ってどんな遠くに行こうとしても、結局はお釈迦様の手のひらの外には出られなかったという話と同じく、その時の私は大きな母の意志、慈愛というものにすっぽり包まれてしまっているようでした。
母の意志を感じ取れる、それはほんの少しの心の救いではありましたが、それだけですぐに悲しみが癒えるわけではありません。
心から願うは母の快癒、ただそれだけです。
なすすべがない私は、藁をも掴む気持ちで意識の上で母になりきり気功法をしました。
気功とは不思議なもので、自分がある人になったつもりで行うと、その対象の人に気功による身体の変化が現れてくるのです。
そのことを経験的に知っていたので、ある日の真夜中の二時半、目を閉じ、母の身体になったつもりで気功をし、天地のエネルギーを身体に取り入れました。
しかし翌日病院に行ってみるとショックなことに、ちょうど私が気功をしたその時刻に母の容態が急変し、自呼吸ができなくなっていたのです。
喉元を切開し、人工呼吸器を取り付けその場をしのいだものの、病院の方では家に電話をしようかどうか迷ったのだそうです。
「なぜ・・・、どうして・・・」
私は母にどのような思いで接していけばいいのでしょう、まったく分からなくなってしまいました。
その頃、私が心の拠り所としていた篠原由紀子さんという方に奈良から毎晩電話をし、母についての話をし、相談にのっていただいていました。
その篠原さんにこの度のことを話しました。
すると篠原さんは、
「酒井さん、あなたはお母さんによくなってもらいたいと一生懸命なのでしょうけど、
よくなるかどうかはお母さん自身が決めることでしょ。
もっとお母さんを信頼し、意思を尊重し、見守ってあげたらどうですか」
とアドバイスをくださいました。
なるほど、そうかもしれません。
母はきっと今、三途の川の手前あたりで、これからの行く方向を思案しているのでしょう。
その母を遠くから見守ること、それが最も大切な親孝行の道なのかもしれません。
母は本当にいろんなことを教えてくれます。
母の病院に通うようになって一週間たち、十日たっても病状はいっこうに回復せず、これから先の見通しが見えてきません。
いつ意識を取り戻すのか、ずっとこの先何ヶ月も何年もこのままなのか、それとも数日中に容態急変といったことがあるのか。
私も仕事を投げたまま、いつまでもこうしているわけにもいきません。
将来的に意識を取り戻してくれるのなら、また、意識が戻らないまでも、命だけでもながらえてくれるのなら、広島を引き払って奈良へ戻り、母のもとにずっといたいとは思いますが、病状の見通しが立たない以上どうすることもできないのです。
そんな時、篠原さんがこうアドバイスしてくださいました。
「これからのこと、どうしたらいいか迷っているのなら、お母さんに直接聞いてごらんなさい。
必ずお母さんが返事をしてくれるから」
この十日あまりの間、母からの無言のメッセージを数多く体感していた私は、母を信じ、この言葉にかけてみることにしました。
「お母ちゃん、伸雄はね、お母ちゃんがよくなるんやったら、ずっとそばにいたいと思ってるんよ。奈良へ戻ってくるよ。
けど今のままだったらどうしていいのか分からなくて困ってるんよ。
どうしたらいい? どうしてほしい? 教えて!」
母の枕元で手を握りながら懸命に語りかけました。
そして数日後のこの日までと期限を区切り、そのことも母に伝え、母の「言葉」を待つことにしました。
そしていよいよ期限となったその日、明日は広島に戻ろうかどうしようかと思案していたその日のことです。
夕方いつものように兄が病院に迎えに来て、一緒に家まで帰りました。
見通しの立たない将来に対する不安で二人とも言葉少なです。
家に着く少し手前で、兄が取引先の店に荷物を降ろしに立ち寄るとのことで、ある住宅地の一角に車を停めました。
兄が荷物を持って外に降り、その間私は車の助手席で待っていました。
すると前方からマウンテンバイク(自転車)に乗った小学生の男の子がフラフラと危なげな運転で近づいてきます。
危ないなと思うまもなくその子は真横に転倒してしまい、私はあわてて車から飛び出しその子を抱きかかえましたが、あごの下を大きく切って血を流しています。
その後すぐに兄もやって来て大急ぎで119番に電話をし、救急車を手配しました。
救急車が到着するまでの数分間、そのままその子をずっと抱きかかえていましたが、その子が怪我をしたあごの下というのが、まさに自呼吸できなくなった母が切開をし、人工呼吸器を挿しているその箇所だったのです。
その子を抱きかかえながら、私はまるで母を介抱しているかのような不思議な感覚におそわれました。
「伸雄よ、私のことを心配してくれるのはありがたいけど、私のそばにいなくても、心さえ傾けていてくれれば、その心はいつも私に通じているのよ」
母からのそんなメッセージが聞こえてくるようでした。
「母はきちんと返事を返してくれたんだ・・・」
そのことを強く感じ取った私は、明るい気持ちで広島へ戻る決心をすることができました。
翌日、陸路から広島に戻りました。
途中、阪急神戸線に乗りましたが、西宮北口からたぶん六甲あたりまでが不通だったと記憶しています。
その間の道のりを何時間もかけて歩きました。
母の実家のあった西宮、通っていた大学のある神戸、懐かしい街並みの変わり果てた姿に強い衝撃を受け、元気だった母も、思い出のある街並みも、すべては諸行無常だということを肌身で感じました。
広島に戻って、いろいろと心配をかけてくださった知り合いの方数名にお礼のハガキ絵を書きました。
どのような文面だったかは今は記憶にありません。
奈良にいた二週間あまりの間、物言わぬ母からの無言の愛をからだで感じ、その喜びを表現したのだと思います。
ある方はその受け取ったハガキを読み、涙を流してくださったそうです。
私自身も胸の内を文章にし、ひとつのケジメがついたように思います。
その翌日、友人から映画に誘われ、あるファッションビルの中にある旅行代理店に映画の前売り券を買いに行きました。
そしてその次の日の日曜日、友人たちと三人で「フォレストガンプ」という映画を観に行きました。
映画が終わり、友人たちと別れ、近くの公衆電話から家に電話を入れました。
家の電話の留守番メッセージには、母が息を引き取ったことを知らせる兄の声が入っていました。
3月19日、その日が来ました。
けれども悲しみより先に、心の中はまるでその時外を吹いていた春先の風のように爽やかで透明な感情が湧き上がってきます。
母は最期に私にたくさんの愛情を与え、そして自らの意思で死を選んでいったのだ、そう思えることに、ほんの少しですが喜びすら感じ取ることができます。
私をこんな気持ちにさせてくれた、これが「母の愛」です。
愛とは、パワーやエネルギーではありません。
愛とは普遍的なもの、水や空気と同じく、いつもそばにあり、私たちの生命を慈しんでくれる、そういったもの、「状態」なのだと思います。
大河にはいつも大量の水が流れています。
けれども穏やかな大河は、見た目にはその流れを感じさせません。
自ら川面に近づき、川の中に手を差し伸べ、冷たい水の勢いを指先に触れ、初めてその流れを感じ取るのです。
まだ首の据わらない赤ん坊の頃から乳を与え手塩にかけて育ててくれて、どんな反抗的な態度をとってもいつも許し、変わらぬ愛情を注ぎ、そして最期の最期、命が燃え尽きる寸前まで、私に「愛」というものを教えてくれた母。
愛とは一過性のものではなく、どんなことがあっても変わらないもの、だから愛とは「状態」なのです。
翌日20日がお通夜です。
なんとしてもすぐに奈良に戻らなければなりません。
陸路は寸断されていますので、飛行機のチケットをと思うのですが、あいにくの日曜日、どこの旅行代理店も閉まっています。
その時フッと思い出しました。
さっき見た映画のチケットを買ったのは旅行代理店、あそこはファッションビルの中だから、あそこなら日曜日でも空いているはず。
行ってみるとやはり開いていました。
早速翌日の飛行機の予約状況を尋ねると、朝7時台の第一便、広島西飛行場発 関西国際空港行きのコミューター機に空席がたったひとつ残されていました。
昨日初めて行った旅行代理店、日曜日に開いていて、翌日第一便に空席がひとつ、すべて偶然では済まされないものを感じます。
母が導いてくれているのでしょうか、翌朝6時過ぎにタクシーを予約したのですが、その時刻の30分ほど前、5時半ごろに突然電話の呼び出し音が一回だけ鳴りました。
すべてに不思議ななにかを感じます。
飛行機に乗り、昼前には奈良の家に着きました。
静かに眠る母の顔を見るとやはり止め処なく涙が流れてきます。
しかし口から出る言葉は病院に行った時とは違います。
「お母ちゃん、ありがとう・・・ありがとう・・・」
「ごめんね」という懺悔の言葉から「ありがとう」という感謝の言葉に換わったのです。
大いなる母の愛が、私の心を救ってくれました。
20日のお通夜には、近所の人、親戚、友人、たくさんの方が集まってくださいました。
死ぬまでずっと働き通しだった母、もっともっと人生を楽しめばよかったのに、たくさんの母の友人を見ていると、そのことが心に残ります。
ちょうどその頃、テレビでは大変なニュースが流れていました。
オウムによる「地下鉄サリン事件」です。
今でもサリン事件の報道を耳にすると、お通夜の日のあの光景が思い起されます。
20日のお通夜、21日の葬儀がすみ、一週間ほど奈良にいる間に、母の快癒を祈った三つの対象にお礼とご報告をしました。
太陽には、天を仰いでしっかりとお礼を言いました。
無限なる光をたたえる太陽、人間の命もまた、あのように限りない光を放っていることでしょう。
天理王の命様には、天理まで行って参拝をし、お礼をしてきました。
心の故郷天理は、いつ行っても心休まる安らぎの地です。
そして大日如来様にもお礼を述べるため、京都の東寺まで行きました。
この時にとても素晴らしい体験をしたのです。
大日如来像のあるお堂に入り、横に並ぶたくさんの仏像の中央に位置する大日如来像を見た瞬間、
心の中で「アッ!」という大声をあげました。
少しふくよかな大日如来様のお顔、そのお顔と母の顔が完全に重なったのです。
『母はここにいる』
母は大日如来様とひとつになったのだということを、瞬間的に『理解』することができました。
大日如来様と母の存在が、心の中で完全にひとつになったのです。
母と大日如来様がひとつになったということは、心の中で母を思う時、同時に仏教最高の存在である大日如来様を思うということです。
母の面影は私の心の中にしっかりと息づいています。
いつも心の中に母がいるということは、大日如来様も常に心の中にいてくださるということです。
これからはもう偶像を求め、拝む必要はない、心の中に宇宙最高の存在があるのだから。
母は宇宙最高の存在になった。
そして母だけではなく、私も、誰しもがいつかはそうなれるのだ・・・。
これら様々なことを、大日如来様を見たほんの一秒にも満たない瞬間に、すべて感じ取ることができたのです。
そして大日如来像の前に立って手を合わせました。
するとハッキリと目に見える透明な光の帯が像の背中の方から流れ出て、やわらかな円弧を描き、私のからだを優しく包み込んでくれました。
その光の力はとても力強く、まっすぐ立っていることができず、思わず後ずさりしてしまうほどでした。
母は永遠の命をもらったのだ。
そしてその命の源は、私たちが想像しうる最高の光り輝く存在であるのだ。
そのことを東寺の大日如来様は教えてくださいました。
私は亡くなった母を世界で一番尊敬しています。
それは母が素晴らしい人格者であったという意味ではなく、たまたま私の場合は縁あって、母の最期の時、母の純粋で光り輝く「真我」と対話をし、触れ合うことができたからです。
この光り輝く真我は、人類あまねくすべての人が持っているものなのだと感じます。
人間の表面意識には、怒りや憎しみ、様々な感情が渦巻いていますが、その奥にある真我は、きっと母のそれと同じく、宇宙最高の光を放つ素晴らしいものなのだと確信しています。
母が、母の魂が私にくれたあふれんばかりの愛、その愛情の万分の一でも私から誰かに注ぐことができたなら、どんなに素晴らしいことだろうか、そのことをいつも思いつつ、人生最大の目標としています。
今はまだ遠い道のりですが、いつの日か、私にもそれが実現できる日が必ず来ると信じています。
なぜならば、私たちみな、太陽のように無限に光り輝く存在なのですから。
2007年夏
酒井伸雄
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