ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



小さき神々

新しい水の時代の宗教は、
一人一人の心の中に神性を見いだしていきます。
もうこれまでの金属の時代のような教団、教義といった
硬い拘束力を持った宗教(組織)は、
たぶん長くても今世紀中にはなくなっていくのではないかと予想されます。

これは思想ではなく、
生命を持った歴史や自然の成り立ちから推察される法則ですので、
季節の移ろいと同様に、何人にも変えることはできません。


拘束力のない、形のない水の時代の宗教は、
自由ではありますが、自らの意志で己を律することが求められる、
いわば一歩進んだ大人の世界と言えるでしょう。

子供のうちは大人に厳しくしつけられ、
学校では校則によって行動を制限されるのが、
大人になると自由になる代わりに自己責任を求められるのと同じことです。


厳しい教義によって人々の倫理観を縛る宗教は、
主体性を喪失させたり、思考を偏狭にするといった危険性があるものの、
その人の思考、行動をひとつの方向に向けて引っ張っていく大きな力があります。

これからの水の時代に求められるものはすべて自分です。
自分がいかに考え、行動するか、
ひとつの思想を持つに至るにしても、
その過程でいかに自分の頭を使って考えたのかということが問われてきます。

新しい水の時代の流れを受け、
数々のスピリチュアルムーブメントが現われてきていますが、
そのうちのどれがいい悪いではなく、それと関わる過程で、
どれだけ自分の頭で考え、判断し、
自分をしっかりと持った上でそのものと関わろうとしているのかが求められます。

少し前まではハード(物)が価値を持つ時代でした。
それからソフト(技術、手法)に価値の主体が移り、
これからは、それらハード、ソフトといかに関わるかという、
自分自身の考え方、スタンスに価値の主体が移ろうとしています。

これはなかなか言葉で説明するのは難しいのですが、
『己の中に神を見いだす』時代であるがゆえ、
価値の主体は自分にあり、自分の外側にあるハードやソフトは、
その「自分をいかに活かすか」という “関わり” にのみ
価値を求めるべきだということです。


自分自身が神である。
自分、そして自分の身の回りのものすべては自らが創造したものである。
そして価値というものは、自分とそのもの(ハード、ソフト)との
関わりの中にのみ存在する。

これはとても自由ですが、広く漠然とした捉えにくい概念です。
こうした中、どのようにしたら常に己を見つめ、
自分の行動を問い直すことができるのだろうかと考え続けてきました。

これまで様々な体験を経て、ほんの少しずつではありますが、
頭で考えていることが心で納得でき、
己の行動としてそれを示せるようになってきました。

私にとってはそのための方法論を探し、それを多くの人に開示し、
自己決意表明の場としているのがこのホームページです。

トイレ掃除という下座行、スペースクリアリングインドとの関わり、
引き受け気功ホ・オポノポノ、・・・
そのひとつひとつが私自身の心の軌跡そのものです。


少しずつ変化してきている心の持ち方が、
その姿を最も実相に近い形で表に表すのが、
ホッとして気を抜いてリラックスしたり、
身近な人、自分より立場の弱い人間と接している、そんな時です。

誰でも神社やお寺で手を合わせる時は、神妙な面持ちになります。
自分より偉い人と接する時は、言葉遣いも自然と丁寧になります。

けれどもその逆に、家族、気を許した仲間といる時、
職場で立場の弱い出入り業者と接している時などは、
自分でも驚くぐらいわがまま勝手で残酷な一面が表に現われ、
思わずギョッとすることがあります。

私はとにかくストレートな性格で、表裏のある人間は大嫌い。
自分では誰と接する時でも一律同じようにというのを
強く強く普段から心がけているのですが、
それでも時折機嫌のよくない時など、
思わぬわがままが言葉や表情として出てしまい、
後で激しい嫌悪感に襲われる時があります。

先日もあるサポートセンターのようなところと電話をしている時、
相手に論理的矛盾を感じたので、
思わず激しい口調で詰め寄ってしまいました。

サポートセンターの担当者は、
立場上、絶対に相手を批判したり激高することはありません。
本当に気の毒なぐらい平身低頭です。

それを利用し、自分の意見を押し通そうとする “クレーマー” は最低の存在です。
私もそのことは十分理解していますので、
極力感情を抑えてはいるものの、
ついつい目に見えない相手に向かって一方的な論理を押しつけてしまい、
後になって激しい不快感とともに猛反省しました。


自分の至らなさに気付き、不快な思いを胸に考えたのは、
この不快な経験を自分の糧とし、
同じ過ちはくり返したくないということです。

これを教訓とするにはどうすればいいのか、・・・
その時頭に浮かんだのが、
以前耳にした「小さき神々」という言葉です。

すべてのものに神は宿る、だから身近なところのもの、
弱者と呼ばれる人たち、
そういった「小さき神々」を大切にしようという意味です。

小さき神々には自分の本音が出てしまいます。
その本音は我(が)と表現しても差し支えないでしょう。

その自分の心の本当の姿、我が表に現われるから、
小さき神々は貴重な存在です。

小さき神々によって、己の我をしっかり見つめることができます。
小さき神々は、己の我を引き出してくれる名人です。
小さき神々は、己の我をしっかり映し出してくれる鏡(かがみ)のような存在です。

だからこそ、小さな神々をしっかりと見つめ、
そこから我(が)を取り除く努力をすれば、
誰でも鏡(かがみ)から我(が)を取り除いた神(かみ)になれるのです。
  「鏡の法則」

我が子がまだ幼くて手がかかる時期は、
誰しも感情的になるものです。
年寄りを介護したり、家事や仕事でくたびれ果てた時も同様でしょう。

我や感情は一気に取り除くことのできるものではありません。
そのことで、自分を責める必要はまったくありません。
徐々に徐々に、一歩ずつ、亀の歩みで理想に近づいていけばいいのです。

引き受け気功の藤谷康充先生の名言、
「あなたのことを好きになることはできませんが、これ以上は嫌いになりません」
「完璧にはできませんが、できる範囲で顔晴らしてもらいます」
このスタンスがいいのです。 (^o^)v


すべてのものに神は宿る。
そして小さな神々にこそ、
私たちが見つめるべき本当の神の姿が映し出されます。

そう考えると、特別な神社仏閣やパワースポットに出かけなくても、
ごく身近なところに、最高に素晴らしい神々が臨在しているということになりますね。

やっぱりこの時空は、どこから見てもすべてが愛そのものです。
小さき神々に感謝です。
   ヾ(´ー`)ノ 。・:*:・゜'★,。・:*:・゜'

2010.8.12 Thurseday  
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