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言葉の限界<5>

神の化身として一時日本でも話題となったサイババの本を
過去に何冊か読んだことがあります。
サイババの顕現する奇跡はすごいものですが、
彼が本当に神の化身なのか、高度な技術を使う手品師なのか、
私には判断することはできませんが、
彼の書いた本の中には素晴らしい英知が凝縮して書かれているのは事実です。

   

サイババは、
「私は自分が神であることを知っている、あなたたちは知らない。
 私とあなたたちとの違いはそれだけである」
と語っていて、そのことはよく理解できます。

だとしたら、サイババも私たちもみんな神の化身であり、
神そのものなのだと思います。

サイババの数多い輝くような言葉の中で、
私が最も深く心に刻んでいるのは、
以前にもご紹介したこの言葉です。

『神は祈る唇よりも、奉仕する手を好む』

私を含め、ともすれば労を嫌い、頭の中だけで問題を処理しようとする
スピリチュアリズムを偏重する人たちにとって、
この言葉は重く受け止めなければならないものだと思います。

祈ったり、頭の中だけでイメージするのは楽なことです。
オウム真理教が事件を起した時、
多くの「知的」な若者たちが一般社会から隔絶された施設の中で、
与えられた修行のプロセスを絶対と信じ、
ただそれを機械的にこなし、ステップを踏んでいくことが霊的な成長となり、
最高の生き方なのだと思い込んでいる姿に異様な印象を持ちました。

事件当時多くのマスコミが、
「一流の大学を卒業し、知的にも優れた若者たちが、
 なぜあんな馬鹿なことをしでかしたのか」
という報道をしていましたが、
子供の頃から社会での経験や家での手伝いよりも、
少しでもテストで高い点数を取り、偏差値の高い大学に行くことが
(ほぼ)唯一最高の生き方であると教え込まれてきた若者たちが、
一定の修行プロセスを消化すれば、
自動的にステップを踏みながら霊的進化ができると説く
オウム真理教の教義に魅力を感じ、受け入れたのは、
至極当然のことだと感じました。

祈るという観念である陰の世界は、
行動という形ある陽の世界と合わさってバランスを取り、力を持ちます。

観念の世界のみがすべてである信じ込んでしまうと、
サリン事件のようなボアやイスラム原理主義者の起す自爆テロのように
恐ろしいことでも平気で受け入れてしまう危険性を秘めています。


祈ることよりも奉仕の方が大切である。
祈ることは陰、形ある奉仕は陽です。

これは前項に書いた

知識と知恵、このふたつのバランスが大切であり、
もしどちらかが先行するとしたならば、
知恵が先行するのが理想的です。

なぜならば知恵は陰であり精神の世界、
知識は陽であり物質の世界、
この時空は陰陽の順序の理で成り立っていて、
陰からはじまるのが自然の形だからです。


このことと矛盾します。

これはバランスの取れた陰と陽との共生関係は、
ひとつの世界の中だけで完結するものではなく、
ミクロの原子の世界から大宇宙のマクロの世界まで、
途切れることなく多層的に広がっていて、
そのどの部分を切り取って見るのかによって見方が変わってくるからです。
これがフラクタル(自己相似形)というものです。

私は精神という陰と肉体という陽をひとつのバランスとして持っています。
男性である私とパートナーとなる女性をひとつにすると、
私は陽でありパートナーの女性は陰となります。

この二人は人間という動物ですので、
植物と共生関係を持ち、その時は私たち人間は陽であり、
植物は陰となります。

この時空の中は、こんな多層的共生関係で満たされています。


言葉でありがとうと書く、あるいは口で唱えるのは、
あくまでも手段であり、感謝の思いを表現するひとつの方法です。
ですから、あくまでも思いが主であって、
それを表現する言葉は従にしかなり得ません。

思いがあったならば、
それを形として表現するのが肉体を持った私たちの務めです。

外を歩いている時、
目の前にお腹をすかして倒れている子どもがいたらどうするでしょう。
両手を合わせてその子の幸せを祈るでしょうか、
それともパンやおにぎりを買ってきてその子に与えるでしょうか。

それが知らない子どもではなく、我子だったらどうでしょう。

こう考えてみれば、思いというものは、それに基ずつ行動を得て、
それが光り輝くということが分かっていただけるのではないでしょうか。

マザーテレサは祈りとともに、
インドの貧民窟で身を粉にして貧しい人たちに奉仕しました。
だからこそ彼女の愛と祈りは価値を持ち、多くの人の胸を打ったのです。


『思いがすべてを創造する』、これは真理です。

けれども本当に深い愛の思いがあったなら、
目の前で倒れている子どもに何か食べ物を与えるでしょうし、
困っている人がいれば、手をさしのべるはずです。

そこから目をそらし、ただ「思い」だけで問題を解決しようとするのは、
本当の思いでも愛でもありません。
厳しい言葉ですが、それは単なる欲であり現実逃避に過ぎません。

現在のスピリチュアル愛好家で、
願望実現のテクニックに走っている人たちの中には、
こういった人が少なからずおられるように思います。


思いの力は偉大です。
その思いを司る手段としての言葉の力もまた偉大です。

私は毎日ホ・オポノポノの手法で、感謝の言葉を唱えています。
引き受け気功をやりながら「引き受けさせていただきます」と
心の中で繰り返し繰り返し唱えています。

けれども、そのホ・オポノポノや引き受け気功よりもはるかに大切にしているのが、
自らの体を使って奉仕をする公衆トイレ掃除です。

これほど簡単かつ深く愛を具現化させてくれる方法は他にはなかなかありません。
私はこの公衆トイレの便器を磨かせていただくという行を、
一生続けていくつもりです。

これは社会に奉仕するためではなく、
100%自分のためにすることです。
これは自分を律する最高の方法であり、
これをやらなければ、
自分の中のバランスが大きく崩れてしまうことが分かるからです。

奉仕の形はトイレ掃除に限りません。
家の近所を掃除する、子どもや社会的弱者の方たちのお手伝いをする、
方法は様々です。
もしあなたがスピリチュアルというものに興味があり、
そこに何か志すものがあるとしたならば、
是非そのベースとして、何らかの奉仕活動に取り組んでいただくことを願います。


バランスという共生関係は、時空の基本法則のひとつです。
言葉という素晴らしい力を持つものと上手く付き合うためには、
言葉以外のものとどう関わっていったらいいのかということを
考えてみるといいでしょう。

私たちは自らの「思い」でこの世に肉体を持って生まれてきました。
言葉も肉体も、思いを具現化するための手段です。
それらを活かし、いい関係をいかに保つかということが、
私たちにとっての最高の知恵なのだと思います。

2010.12.26 Sunday  
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