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言葉の限界<4>

道具である言葉は、それをいかに使うかというところに価値があるのであって、
言葉そのものに価値があるかのように勘違いしてしまうと、
最も大切なものが見えなくなってしまいます。


差し障りのない範囲で具体例を挙げてみましょう。

私は二十年ちょっと前にハガキ道を提唱する坂田道信先生と出会い、
一時期は随分懇意にしていただきました。

 

毎日30〜50通のハガキを書く坂田先生からハガキを書くこと、
人とのご縁を大切にすることを教えていただき、
私の人生はそれ以前よりも格段に広がっていくようになりました。

筆無精だったそれまでの私は大変身し、
こまめにハガキの返事や礼状を書くようになり、
相手にとって役立つだろうと思われる資料はこまめにコピーを取ってせっせと送り、
思わぬ人とご縁が繋がることも多くなりました。

今はハガキからメールへとコミュニケーションの手段は変わりましたが、
いろんな人に対してこまめにメッセージをお送りするという習慣は、
私の人生にとって最も貴重な財産のひとつとなっています。

坂田先生は自分の書いたハガキの文面が手元に残る
カーボン紙を使った複写ハガキというものをすすめておられます。
私も当初は「複写はがき綴り」というのを使ってハガキを書いていました。

坂田先生のすすめられる複写ハガキの書き方というのは決まっています。
宛名面の相手の住所、名前は筆ペンを使って書き、
自分の住所は住所印を押し、スタンプの色は黄口という朱肉の色です。
文面の文字は青色となるように青いカーボン紙を使って書き、
綴りに印刷されている縦線に従って、
最初の一行目は宛名を○○○○様という風に書き、
二行目から本文を記入し、
最後の一行は自分の名前を△△△△拝という形で記入します。

これは坂田先生がこうするべきだと薦めておられるわけではなく、
暗黙の了解で、複写ハガキを書く人たちは、
この様式がいいということで右にならえをしているのです。

私は筆を使って文字を書くのが苦手なので、
筆ペンを使うこと以外はこの様式を守って複写ハガキを書いていたのですが、
書いているうちにだんだんとハガキの文章が型にはまり、
自分らしさが出せなくなるのと同時に心がこもらなくなり、
結局複写ハガキを書くのはやめてしまいました。

その後はかなり手間がかかるのですが、
一枚一枚水性サインペンを使った直筆のハガキ絵を描いて送るようになりました。


複写ハガキを使ってハガキを書くのはハガキ道、
私が今一番熱心に行っているトイレ掃除には掃除道という言葉があります。
茶道、華道、武道、 ・・・ 道という言葉のつく世界は、
形というものを大切にします。

形をきちっと整えるところから正しい心遣いが育まれていくというのは事実ですが、
『表大なれば裏大なり』、『光があるところに影がある』、
形ばかりを追い求めることによって、
肝心の心遣いというものがおろそかになっていく危険性があることもまた事実です。

私の回りにはハガキ道を実践し、
毎日たくさんのハガキを書いている方たちが少なからずおられます。

ハガキには当然感謝の言葉や喜びの言葉などいいメッセージしか書きません。
その思いを相手に込めて、数分間の時間を費やしてハガキを書くことにより、
自分の心の中の感謝と喜びの思いを増幅させ、
相手にもそれを伝えるところに価値があります。

しかし毎日大量のハガキを書き、
しかもそのハガキの書き方が人から教えられた一定の様式に従ったもので、
そこに綴る言葉も書き慣れたものとなってしまっては、
最も大切な「感謝と喜びの気持ちを込める」ということが希薄になってしまいます。

ハガキを書き慣れた人からお礼状をいただいて、
そこに感謝の言葉がたくさん綴られていても、
まったくその気持ちが感じられないということが少なからずあります。

中には、最初の宛名の○○○○様という部分を変えれば、
誰に出してもおかしくないような文章のハガキを送られてくる場合があります。
こんな感じです。

  ○○の会では大変お世話になりました。
  お陰様で心温まる素晴らしい一時を過すことができました。

  出会いはご縁ですね。
  これからもこのご縁を大切にして、
  一歩ずつ歩んで参りたいと思います。

  これからも末長くご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。

たぶんたくさんの方にほぼ同一の文章で送っているのでしょう。
こういったハガキをいただいても、何の思いも伝わってきませんし、
こんなハガキに対しても返事を書かなければいけないのかと思うと、
申し訳ないですが、逆にありがた迷惑に感じるだけです。

なぜたった一言でも相手に目(心)を向けた言葉を書くことができないのでしょうか。
それが「思い」というものです。

こういった定型のメッセージを送ってくる人は、
志、情熱、積極的、目標、活性化、夢、プラス思考、・・・
なぜかこんな言葉が好きみたいですね。


あまり否定的なことばかり書きたくはないのですが、
言葉という道具の持つ力、利便性に溺れてしまい、
そこにしか目が行かなくなると、
道具を使ってたどり着くべき本来の目的である
「相手に思いを伝える」ということが忘れ去られてしまいます。

どんな筆記用具、方法を使ってハガキを書こうか、・・・
これはテクニックという知識の世界です。
このハガキを受けとった人はどんな気持ちを持たれるだろうか、・・・
それを相手の立場に立って考えるのは知恵です。

知識と知恵、このふたつのバランスが大切であり、
もしどちらかが先行するとしたならば、
知恵が先行するのが理想的です。

なぜならば知恵は陰であり精神の世界、
知識は陽であり物質の世界、
この時空は陰陽の順序の理で成り立っていて、
陰からはじまるのが自然の形だからです。


○○道という道の世界、あるいは○○教という宗教、
様式を大切にし、形から心の領域に入っていこうとする世界は、
とても強力かつ効率的にひとつの方向へ人を導いていくことができます。

競走馬が斜眼帯を付け、前しか目えない状態にすると、
遮二無二目標に向かって突っ走るのと同じ事です。
これは決して悪いことではありません。
ひとつの方法として価値あるものです。

けれどもその競走馬がいったん走るコースを外れてしまったら、
前しか見えなければ、道を外れたということになかなか気付くことができません。
また気付いたとしても、自力で正しいコースに戻ることは困難です。

これまでの金属の時代、人をひとつの型にはめ、
ひとつの方向に強い力で引っ張り、
それが大いなる力を発揮していた時代は、
目に見える形、言葉を使って人を一方向に向かわせることが
大きな価値を持っていました。

けれどもこれからは水の時代であり、
心の時代、知恵の時代です。
全員を一律にひとつの方向に導くことよりも、
一人一人の知恵を尊重し、
自らの判断力で行き先を決めていくことにこそ価値があるのです。

形あるもの、言葉によって道を決めるのではなく、
自らの内から湧き出る気付きによって歩んで行く時代です。

アセンション、次元上昇の時代といわれていますが、
人類も、外からの導きではなく、
やっと自らの歩みで大きな一歩を踏み出せる時が来たということかもしれません。

2010.12.25 Saturday  
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