ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



意味

身の回りで起こるすべての出来事には意味があり、
それらはそこから何かを学び、気付きたいと願い、
自らが引き寄せていることです。

そしてその意味を明確な形で示してもらえることこそが
私たちが一般的に言う “御利益” や “神のご守護” であり、
それはその人の徳分、使命(天命)、志、カルマ、日常の心の持ち方、
そういった様々なものと深く関わっているのだと思われます。
  <神のご守護>

深い意味があり、決して偶然ではないと思われる出来事は、
表面的に楽しい嬉しいといった明るいものばかりではありません。
完璧ではない私たち人間にとって、
悲しみから学び、気付くことも多々あり、
深い悲しみの中に何らかの意味が感じられるということが、
一筋の希望の輝きとなることもあります。

神因縁を持つ私のこれまでの人生は、
まさに奇跡と呼ぶにふさわしい出会いと導きに彩られてきました。
そしてその出会いと導きの力は、
ここ最近になってますます加速度を付けてきているのを感じます。

これは私個人だけではなく、
時代が大きく陽から陰へと変わろうとしている現在、
多くの人がその時代の転換エネルギーの影響を受け、
加速度を増した時間の流れの中で、
確実にひとつの方向へ導こうとする大きな力を受けておられるものと考えられます。


昨年、私の二十年来の親友であり、
私が最も大切にしている文明法則史学という歴史の生命観を共有し、
ともに語り合えるAさんにとてつもない大きな不幸が襲いかかりました。

それは彼だけの問題ではなく、私にも深く関わりのあることでした。
広島から遠く離れた関東地方に住むAさんですが、
その不幸の舞台となったのがなぜかここ広島であり、
そして鮮やかなサインとしてその不幸な出来事は、
私が現在関わっている友人たちの大きな集団の中で行われたのです。

遠くで暮らすAさんとは、それまで数年に一度しか会うことがなかったのですが、
その出来事が縁で昨年から今年にかけて何度も出会い、語り、
ともにこの出来事を乗り越え、これをキッカケとし、
二人の持つ大きな志と天命を成就させようと誓い合うことができました。


Aさんと同じく歴史の生命観を共有し、
深い志を語り合えるBさんという親友がいます。
Bさんは私よりも二十歳近く年上ですので、
親友と呼ばせていただくのはおこがましいのですが、
「この人とは確実に前世からの深い因縁があるのだろうな」
と思わせるほど縁が深く、また大きな影響を与えてくれた人です。

二十年ちょっと前、当時住んでいた松江から岡山に転居する直前、
飲み屋で送別会があったすぐその後にその店でBさんと出会い、言葉を交わし、
数々の偶然とは思えないサインに導かれてその後親交を深め、
そのBさんによって、ここ広島に来る縁もいただきました。

Bさんと出会った当時は、Bさんは広島に住んでおられたのですが、
今はご実家のある遠い他県で暮らし、
あるとても大切な分野で、
日本を変えるぐらい大きなプロジェクトに取り組んでおられます。

そのBさんに、先月、Aさんとは違う形の大きな不幸が襲いかかりました。
その舞台となったのがやはり広島です。

そしてその不幸は、昨夜最悪の結末でもって幕を閉じました。
その幕を閉じたのは、私の家から歩いて十分ちょっとのところ、
私にとって深い思い出のある場所でした。


AさんとBさんは年齢も性格もまったく違いますが、
ともに大きな志と天命を持ち、
私にとって最も古くからの、そして最も大切な親友の二人です。

この二人に襲いかかった不幸は、
普通の人生を過ごす人には経験をすることがないような大きなものです。

それが私にとって無縁でないという大きなサインとして、
このふたつの不幸な出来事に、
現在熱心に取り組んでいる公衆トイレ掃除で深く志を共有できる
心の師であり友であるCさんが関わっているのです。

もちろん被害者とか加害者とかいう立場ではないのですが、
まったく意図しない偶然(?)という形で、
大親友であるAさんとBさん、私という三角形の中に、
最も深く信頼を寄せているCさんが入ってきたのです。


これらのことが何を意味し、どこに導き、何に気付かせようとしているのか、・・・
それに対する明解な解というものが存在するのかどうか分かりませんが、
それを求めることが、
今の自分の人生にとってきわめて大切なものであるのは間違いのないことです。


私のこのたびのインドの旅は、
日本山妙法寺の石谷上人に指摘されたように、
まさに凶方位の旅で、様々な思わぬトラブルがありました。

トラブルといってもすべては上手くリカバリーされ、
そのトラブルの大きさなど、
親友二人の不幸な出来事と比べれば、
まったく取るに足らない爪の垢のようなものです。

そしてそのトラブルから多くのものを学び、
その学んだものは、帰国した今も変化し続けています。

帰国して五日後、ある友人が一冊のインドについて書かれた本を貸してくれました。
少し古いその本は、
私がこれまで読んだ数十冊のインド関連本とは違い、
単なる紀行文を越えた、
インドの貧困や民族に対する深い洞察に満ちたものでした。

さらにその本の中に別の本の紹介があり、
その紹介文を読んだ時に直感で、
「その本は私に新たな目を開かせてくれるものだ」と感じました。

そしてその本は、数年前に古本屋で買って、
いつか必ず読もうと思って本棚にしまっていたものだったのです。

昨日からその本を読み始め、
一ヶ月半の間インドで体験したことをより深く体で理解するのに役立つだけではなく、
昨年、これまでの感じ取ってきた時空や生命の法則をまとめた
「我が魂の遍歴と新しい時代の理」をさらに一段飛躍させる
大きな知恵を提供してくれるものだと確信することができました。

今なぜこのタイミングでその本と出合えたのか、
これもひとつの導きでありサインでしょう。


インドから日本に戻り、それらの本と出合うことにより、
インドの旅の価値や意味というものは変化し続けています。
  (価値というものについては、後日また詳しく書いてみたいと思います)

価値や意味が変化するのはインドの旅だけではありません。
すべてのモノ(物)やコト(事)も同様です。
絶対的に不変な価値や意味を持つものなど存在しません。
不変なものを “マコト” と言い、
それはこの時空のごく限られた基本的な法則のみであり、
価値や意味が変るから、過去は変えられるのです。


私の友人二人に襲いかかった大きな不幸も、
これからその二人と私で、
その意味付け、価値付けをしていかなければなりません。

そしてそれはまだ始まったばかりですが、
志、天命、この中に求めているものがあるのは間違いないでしょう。

2010.6.15 Tuesday  
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