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信じる
信じるということは尊いことです。
けれどもその反面、盲信という言葉があるように、
真実から目をそらせることにもなりかねません。
何をどう信じるか、
信じることは諸刃の剣のようなものです。
使い方によってその価値は大きく変わってしまいます。
信じることによって意識は一点に集中され、
とても大きな力を発揮します。
これまでの金属の時代は、
固い絆を持つ組織が、厳しい規則、戒律の元に統一された意識で
ひとつのものを信じ、ただ闇雲に前に向かっていくのが善でした。
またその価値観が安定していた時代は、
ひとつひとつ疑ってかかるより、
信じるものに対して真っ直ぐに進んでいく方が効率的であり、
自らの意志で稚拙な判断をするよりも間違いを犯すことが少ないということが
あったのだと思われます。
けれども今は時代の激変期で、
既存の価値観が大きく崩れようとしています。
また長かった金属の時代が終わりを告げ、
これから新たなる水の時代がはじまろうとしています。
水の時代は広くあまねく、そして変幻自在自由にというのが特質です。
これまでの金属の時代のように
ひとつのものを固く信じるという硬直化した思考は、
明らかに時代の理に合わなくなってきています。
どんな素晴らしいものであっても、
それを盲信しはじめた時から進歩が止まり、
正常な判断ができなくなってしまいます。
私のこれまでのスピリチュアルな歴史の中で、
これからの新しい時代を象徴するような素晴らしい数々の教えと
出合ってきましたが、
そのいくつかは明らかに進歩の止まった盲信集団と化していました。
元なる教えが素晴らしく、また創始者が人格者であればあるほど、
その最初に形作られたものを頑なに信じ、
そこから一歩も脱しようとしないのです。
それは判断力を失ったと言うよりも、
意図的に判断力を廃棄した姿勢です。
最初の段階では、
その盲信するが如くひとつのものを信じ、学ぼうという姿勢は有益ですが、
いつまでもその姿勢を堅持し続けていると、
楽ではありますが、本質、そして自分を見失ってしまいます。
“素晴らしい教え” の集団の中に、
「これと出合った私は選ばれし人間なのだ。
ただこれについて行きさえすれば最高の幸せが得られるのだ」
とでも言いたげで幸せそうな人たちを数え切れないぐらい見てきました。
「組織はできた瞬間から腐り始める」と言いますが、
その組織の最初の形が立派であればあるほどそうなる可能性が高いのです。
『守破離』という思想があります。
まずは受け継がれてきたものを守り、
次には時代の変化、自己の成長とともにそれを破り、
そして最後にはそこから離れ、自らの型を作っていく、
ということです。
信じる力が強く、それが盲信のようになってしまっては、
最初の “守” の段階から次へと進むことができません。
信じるとは諸刃の剣のようなものです。
だからこそ信じることと逆の働きを持つ “疑問を持つ” という姿勢を
常に忘れないようにしなければいけません。
守るべき、また信じるべきは、最初に与えられた形ではなく、
その根底を流れる原理であり、思想です。
その原理と思想を大切にし、それと同時に時代や自己の変化に応じた
形というものを求めていくべきです。
自戒の念を込めて、身近な例をお話しします。
私が現在最も力を入れている活動は、
公衆トイレを掃除するボランティアです。
このトイレ掃除の活動は全国に広まっていて、
その元を作られたのはイエローハットの創業者である鍵山秀三郎先生です。
鍵山先生はとても素晴らしい人格者であり実践者です。
鍵山先生の長年にわたる掃除の実践、
そこにおける徹底した「ものを活かす姿勢」が今大きく輪を広げ、
掃除を掃除道にまで高められました。
掃除道具の使い方ひとつから様々なことを学ぶことができます。
ものを活かす姿勢はすべてのものに共通で、
その共通している根本を学ぶから “道” なのです。
けれどもその道の中にも時代とともに変化していくものがあります。
トイレ掃除ではカネヨンという洗剤を使います。
これは鍵山先生が長年にわたる掃除の実践において、
数百種類もの洗剤を使い、その中から
汚れ落ち、泡切れ、環境、人体への負荷等を考慮し、
最も優れていると判断されたものです。
私も当然このカネヨンを使っていて、
値段も安く万能で使いやすく、
とてもいいものだと思います。
けれど今は環境問題が声高に叫ばれ、新しい技術が次々と開発され、
画期的と思える洗剤も身近なところでよく目にします。
「もしかしたらカネヨンよりもいい洗剤があるのではないだろうか・・・」
そんな疑問を常々抱いていても、
掃除仲間の間ではタブーとまでは言わないまでも、
そんな形を破るような発言はあまり頻繁に交わされる雰囲気ではありません。
これは会のメンバーがカネヨンのよさに惚れ込んでいるからというよりも、
鍵山先生のその人格、実践してきた道を深く信奉し尊敬をしているから、
その鍵山先生が提唱されたことに “異論” をはさむことができないのです。
これは素晴らしいことである反面、
将来危険なことに陥る可能性も秘めているということを
一人一人が自覚しなければいけません。
それとカネヨンを選ぶまでに、
鍵山先生は自らの体を使って数々の検証を重ねてこられたのでしょうが、
私たちはその過程を体験していません。
カネヨンは素晴らしい価値のある洗剤ですが、
それを選ぶ過程というものも、それと同様の価値があるはずです。
はじめからあまりにも立派な形を提示されてしまうと、
それについて行く者は、その形という “答え” を最初から受け入れざるえなくなり、
答えを導く過程から得られる “学び” を手にすることができなくなってしまいます。
学びというものから人は判断する力を養っていきます。
ですから学びが乏しい人は判断する力が弱く、
人から与えられたものを “信じる(信じ込む)” ことしかできなくなるのです。
学ばないから判断できない、
判断できないから信じ込む、
信じ込んでいるからますます学ぶことができなくなる、
これはまさに悪循環です。
どんなこと、ものにも絶対ということはありません。
信じることも同様です。
信じることは、
信じることの対極であり相対である「疑問を持つ」ということ、
自ら考えるということをセットにしなければ、
本来の価値は得られないのです。
2010.3.14 Sunday
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