ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



信じる<2>

諸刃の剣である信じるということの特質が最も顕著に表れているのは
宗教の世界でしょう。
深く信じ込んでいるものに対して、人は「宗教みたい」と揶揄するほど、
宗教と信じるという行為は切っても切れない深い結びつきを持っています。

信じること自体に善悪はありません。
諸刃の剣ですから、その使い方によって価値が変わるということです。

私たちが思い浮かべる宗教というのは、
既存の宗教団体、組織であり、お寺や教会のような建物であり、
また見事なまでに体系化された教義、それに基づく戒律です。

これまで長く、たぶん6,400年間続いてきたであろうと思われる
金属の時代は、
宗教がこういった形態を持ち、
信者が堅い組織や教義をまるごと信じるという形が自然であり、
時代の理に合っていました。
信じることが大きな力を発揮していたのです。

ただ強く信じるがゆえ宗教間の争いはいつも絶えることがなく、
本来魂の救済を目的としているはずの宗教を守るため、
大量の血が流されてきました。

これは信じることの特質であるというよりは、
金属の理がこういった衝突を生み出してきたと考えるのが妥当です。

堅い金属同士はお互いを重ねても、けっして溶け合い、融合することはありません。
堅い金属同士をぶつけると、激しく音を立て、
時にはその堅い表面をも傷つけ合ってしまいます。

金属同士は常温で溶け合うことはありません。
強烈な熱を加えると溶け合って合金になることもありますが、
その熱を加えて溶けてしまう段階で、
本来の固体としての金属の特質は一時的に多くが失われてしまいます。

金属の理も信じることと同じく、それ自体に善悪はありません。
今は長大な金属の時代も終焉の時を迎え、
その贖罪をするが如く否定的な面が一気に現れ、
金属の理、それを支えてきた信じるということの本質が
問われるようになってきているということです。


これからは新たなる水の時代を迎えます。
しなやかでたおやかで、一定の形を持たず、何とでも溶け合う水の特質は、
頑なさを持つ信じるということとは、相反する面を持っています。

それではこれからは、信じることは価値を失ってしまうのでしょうか。

たぶんそんなことはないと思います。
信じるということはいつの時代でもやはり尊いものです。
ただ時代とともに信ずべき対象は変わってきます。

金属の時代の信ずべき対象は、絶対的な権力を持った集団であったり
価値体系であったり、また神と呼ばれる存在であったり、
そのいずれもが自分の外にある、自分以外の存在でした。

これからの水の時代の信ずべき対象は、
その対極である自分であり自分の心というものになってくるでしょう。

変幻自在な水の中を迷うことなく泳いでいくためには、
自らの中にしっかりとした基盤(原点)を確立しなければ、
大海をさまようクラゲのようになってしまいます。


私の個人的な体験です。
19歳で天理教という宗教と出合ったのが、
今まで続く私の長い精神世界の旅のはじまりです。

天理教の根本である因果律に対して心から共感を覚え、
尊敬する先生の無私の奉仕活動にあこがれ、
自分も社会や多くの人に愛を与えられる宗教家になりたいと決意しました。

天理教の教えの根本は素晴らしいものだと思いますが、
だからといって世界に万を超える数あるであろうあまたな宗教の中で
最も優れていると判断することはできません。
教えが素晴らしいからといって、その体制を維持する教団、
そのあり方を頭から信頼し、賛美することはできません。

天理教を信仰し、その布教師になりたいと願っていた当時の私でしたが、
どの宗教でも求められるであろう教団、教義への絶対的信頼、
その宗教の中で唱えられる固有名詞を持った神名を、
やはり絶対的なものとしてとらえ、人に語り伝えなければならないということに
激しい抵抗感を覚えました。

けれどもその抵抗感よりも、
愛の伝達という実践面での魅力の方を強く感じたのは事実です。
また二十歳そこそこだった当時の私にとって、
宗教という巨大な力を借りなければ、
自から愛を伝達する手段を持ち得なかったということもあります。

布教師にまでなりたいと深く天理教に帰依した私でしたが、
当時は周りの親しい友人、知人たちに、
自分が天理教を信仰しているということを
積極的に話をすることができませんでした。

それは天理教の中にある様々な属性を信じ込まなければならないことへの
激しい嫌悪感と、
宗教という権威を借りなければ愛を語れない
自分に対する後ろめたさがあったからです。

純粋で潔癖であったがゆえに愛の実践と伝達を行う宗教にあこがれ、
その純粋さと潔癖さゆえに宗教の持つ偏狭性に拒否感を覚え、
自分の小さな心の中では、
まったく相反するふたつの考えが常に対立し合っていました。


それから三十年、天理教を縁に神因縁を持つようになった私の人生は、
様々な不思議と奇跡の出会い、導きに満ちていました。

そこから多くのものを学び、
今は天理教の神様に手を合わすことはありません。
何年かに一度、天理の教会を訪ねた時に神前に詣で、手を合わせるぐらいです。

けれども今でも天理教の先生の生き方を心から尊敬していますし、
天理教の根本教理の素晴らしさを感じる心に変わりはありません。
また自分のスピリチュアルな歴史の出発点が天理教であり、
その先生であることに心から誇りを感じています。

ただこれまで様々なことを学び、感じてきたため、
天理教を絶対視することはなく、
自らがつかみ取ったこの宇宙、時空の実相を表す
ひとつの側面であると感じるようになりました。

天理教の教義は、
日本古来からある神道、仏教などの要素が混在していますが、
基本的には一神教です。
これは私の感じている、自らが宇宙であり神であるという
多神教的考え方とは相反するものです。

けれどもそんなことは問題ではありません。
考え方の根本は、一神教や多神教といったものではなく、
その考え方の元に愛があるか、
真理を求めようとする心があるかということです。

真理を言葉や形で表現することは不可能です。
ですから真理の断面に過ぎない言葉や形は、
様々な自己矛盾を抱えるのは致し方のないことです。


熱心に信仰していた頃には語れなかった天理教を、
今は人前で堂々と自らの歴史の一部として語ることができます。

それはこの三十年の間に自分の宇宙観、生命観というものが確立され、
天理教の教えも、その一部として取り込むことができたからです。

私の持っている宇宙観、生命観のベースは自分自身です。
自分の外から与えてもらったものを丸ごと信じたのではなく、
すべて自分の目、考え方を通し、
自分なりの哲学や法則に昇華していったものです。

天理教も仏教もキリスト教も、文明法則史学も
ヨガナンダの説くヨギの世界も私には分け隔てがありません。
それぞれの教えの中に、どのような形で真理が表されているのか、
それを自らがどのような形でつかみ取っていけばいいのか、
関心があるのは唯一この一点のみです。

釈迦やキリストの言葉であろうが、
たとえ一お笑い芸人の言葉であろうが、
その言葉の属性はその価値とは何の関わりもありません。

そこからいかに真理を導くか、
真理はその言葉や形にあるのではなく、
それを受け取る私たち一人一人、自らが決めていくものです。


私が信じるものは自分自身、その心の奥底、魂です。
そして五感で感じることのできる身の回りの自然です。

これからの水の時代は、権威や信頼を外部のものにゆだねるのではなく、
自らの内に信頼を置くこと、また置けるようになること、
そのために自分自身を深く愛すること、
これが何よりも大切になってくるものと思います。

人は誰しも、自分が一番かわいいものです。
その最もかわいい自分を深く愛せるからこそ、
人を愛することができるようになるのです。

2010.3.15 Monday  
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