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原点<5>

天命を知るというのは、封書を開く作業であるという
森信三先生のお言葉を先にご紹介しました。

封書を開くとはどういう作業でしょうか。
まず自らを深く見つめ、その思いに従って行動する、
そしてその行動の結果からさらに進むべき道を模索する、
こういったことかもしれません。

その “思い” とはどういうものか。
『「キレる」を考える』の中で、思考には浅い思考から深い思考まであり、
それは頭、胸、腹といった具合に、
肉体感覚を伴ったものであるということを書きました。

頭でっかち、胸に秘める、腹が据わっている、
こういった感覚です。

人間の五感のうち四感が集中する頭は、
まず最も浅い表面意識を司り、
胴体の最も下部にある腹は、
深い思考、個体を超えた集合意識のようなものに
繋がっているのではないかと考えられます。

ふたつの中間に位置する胸は、表面意識と集合意識の間、
感情というものを司っているのではないかと思われます。
胸が痛む、胸が苦しい、胸がわくわくする、胸がときめく、胸騒ぎ、・・・
これは思考というよりも感情ですね。


志、原点というものは、木で言えば根っこの部分、
肉体で言えば腹や腰に相当します。
志を持つには、腹や腰をしっかり据え、
その上に立つ背骨を真っ直ぐに伸ばすことが必要です。
そしてそれと同様に、
腰の内部、腹で物事を判断することができなければ、
自らの原点を見つめることはできません。

頭での思考が知的であるのに対し、
腹での判断は、より肉体的な感覚に近いものです。


二十年近く前、私にとっての人生のバブルが崩壊し、
生きる希望をまったくなくしてしまった時期がありました。

それまでずっと知的な仕事をし、
社会の上澄みのようなところだけで生活してきた自分に愛想が尽き、
とことん人生の再出発をしたいと願い、
家の近所の電信柱にぶら下がっていた求人案内のペーパーを手にとって、
土木の日雇い人夫の仕事をすることにしました。

なれない肉体労働は、体にとっても、
自尊心というばかげた衣をたくさん身にまとっていた自分の心にとっても、
とてもつらく苦しいものでした。

くたびれ果てて家に帰ってくる自分にとって、
楽しみといえば風呂と食事です。

汗と泥にまみれた体を銭湯の大きな湯船に浸すのは快感そのものです。
この体がとろけるような喜びは、
肉体を酷使した者にしか得られない特権のようなものです。

お腹がすいているので、夕食は何を食べても最高のご馳走です。
ご飯は美味しいし、
風呂上がりに飲むビールの喉越しは
「このためだけに汗水垂らして仕事をしてきたんだ!」
と言い切ってしまいたいほどの至福を与えてくれました。

こういった喜びは、頭ではなく体の奥底から
全身を包み込むようにしてわき上がってくるものです。

頭で考え、他との比較で感じるものではなく、
ただ気持ちいいだけ、ただ美味しいだけ、ただ幸せを感じるだけ、
本当にただそれだけなのです。

もっと広いきれいなお風呂だったらいいのに、・・・
もっと美味しい会席料理だったなら、・・・
そんな何かと比較をするような感覚はまったくわいてくることはありませんでした。

この感覚は、知的な仕事ばかりしていた以前には感じられなかったことです。
そしてこれが幸せ、喜びといったものの本質なのでしょう、
そのことを理屈を超えて、肉体の感覚で理解することができました。

幸せ、喜びの本質は、肉体感覚に近いものなのだ、
そのことが分かるようになってから、
自然とその肉体感覚を大切にするようになり、
そして肉体感覚も少しずつ研ぎ澄まされるようになってきました。

人から何かを提案されても、
その時体からわき上がってくる感覚で判断します。
これは “好き・嫌い” の感覚に近いものです。

頭で考えると得なようでも、
なんとなくイヤな感じのするものは、
その “なんとなく” という感覚を大事にし却下するのです。


一般的な社会では、この好き・嫌いの感覚を
あまり表に出してはいけないということを言われます。
これは物事の原点を見ないで、
表面的な価値観のみを追い求めさせられてきた社会のあり方の
ひとつの象徴です。

けれどもこの好き・嫌いの感覚を使うのは、
諸刃の剣のように難しい面があります。

好き・嫌いは感覚であり、同時に感情、また思考でもあります。
肉体的に言えば、腹からわき上がってくる場合もあれば、
胸、頭から発せられる場合もあります。

またその人の内部に偏見、こだわり、恐れといった
本来望ましくない感情や記憶を抱いている場合、
好き・嫌いといった感覚では、正しい判断をすることができません。

仏教の八正道のひとつ正見(しょうけん)とは、
正しくありのままに真実を見るという意味で、
これはなかなか難しいことです。

しかし完璧ではなくてもこの正見を身につけ、
その上で肉体感覚を研ぎ澄まし、判断するようにならなければ、
己の原点、天命を正しく見つめることは困難です。

本来動物の一種である人間の、
いい意味での動物的感覚を研ぎ澄ますといったことでもあります。


今は時代の巨大な転換期、
これまでの価値観が大きく変わり、すべてのものが変化をし、
まったく新たな様々なものが生まれ落ちようとしています。

そんな時には、これまでの知識、情報を
頭の中だけで整理するだけでは対処することができません。
身の回りすべてのものの本質を知り、
知識を超えた知恵の感覚、
頭だけの思考ではなく、全身を研ぎ澄ませた肉体感覚といったものが
重要かつ必要となってきます。

このページを書いている途中で、
以前にも “好き・嫌い” について書いていたことを思い出しました。 (#+_+)
よかったらこちらも参考にしてください。
    好き・嫌い  好き・嫌い<2>

2010.3.11 Thurseday  
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