スペースクリアリング
「簡単ストレス解消法」「捨てる勇気」でご紹介した「ガラクタ捨てれば自分が見える」、
この本を読み、家の中のいらない物(ガラクタ)を処分し、
とてもスッキリした気持ちで日々過ごすことができるようになりました。

ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門
ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門

たまりにたまった資料、冊子、本、日用品、今後ほとんど使う可能性がゼロに等しい
衣類、食器類、それこそ山の様なガラクタを処分しました。

ゴミとして処分したものが大きな袋で二十数袋、古本屋へ二往復、
知り合いに引き取ってもらったものが大きな収納箱で数箱、
こんなにガラクタがあったのかと自分でも驚くほどです。

ガラクタと言っても、まったく使えないものではありません。
すべてはいつか使うかもしれないという微々たる可能性を秘めたものです。
その可能性を信じ、というかそれが囚われとなって、たくさんのガラクタから発せられる
エネルギーによって、新たなる可能性に向けるべき目が阻害されていたという事実に
気が付くことができませんでした。

たくさんのガラクタは、必要性があるから置いているのではなく、
捨てることに対する恐怖心があるからそのままになっているのです。

ガラクタでも処分しやすいものとしにくいものがあります。
食べるもので苦労した人は、いつかまたお腹をすかして苦労するのではという
恐怖心が捨てきれず、たくさんの食料を蓄えてしまうものです。

私の場合も何点かそういったものがありました。
具体的には・・・、恥ずかしくてここには書けません。(;^^)ゞ

囚われのあるもの、処分しようかどうしようか、目の前に山積みにして随分と悩みました。
けれども、そういったものほど一旦目の前から消え去ってしまえば、
本当に気持ちがスッキリとするものです。
肉体的な表現をするならば、宿便を取り去ったようです。
今まで見えなかった未来に向けての希望がわいてきます。

吾唯知足(われただたるをしる)

吾唯知足(われただたるをしる)

吾は唯足ることを知る、
ガラクタの処分とは、このことを知る実践の第一歩かもしれません。


人間の潜在意識は24時間、休むことなく膨大な情報を処理し続けています。

ある時昔の友人の顔が思い浮かび、顔は思い出すけれども名前が分からない、
ところが数時間後、友人の顔と同時に名前をポッと思い出す。
そんな経験はないでしょうか。
これは表面意識とはまったく別に潜在意識が働き続けている証拠です。

大量のガラクタ、過去への囚われがあるということは、
この偉大なる力を持つ潜在意識の何パーセントかがそちらの方に向けられ、
本来明るい未来の創造に向けられるべき力が弱められてしまっているということなのです。

競走馬は斜眼帯という覆面のようなものをかぶっています。
これは前方の視野を狭くし、目標物以外の視覚情報を遮断し、
前に向かって走ろうという馬の気持ちを高めるものです。

私は昔大きなオートバイに乗っていました。
ヘルメットを開口部の小さいフルフェイス型のものに変えた当初は
少し恐怖心がありましたが、慣れてくれば本当に必要な周りの状況だけに神経が
集中するので、かえって快適にスピードを出すことができたのを覚えています。

ガラクタを処分し、必要なものをきちんと整理、整頓すると、
自分が今何に興味を持っていて、何をやろうとしているのか、
本当に必要なものだけが目に入るようになってきます。

本当にやりたいけれども忘れていたこと、自分の今現在持っている能力、可能性、
そんなたくさんのことに気が付くことができました。


本の最後の章に「スペース・クリアリング」という儀式について書かれています。
家の中のガラクタを処分した後、その空間を浄化するための方法です。

お風呂に入って身を清め、キャンドルに火を灯し、香を焚き、花を飾り、・・・
諸々の所作を通して空間を清浄なものにするのです。

これはまったくの偶然(必然?)なのですが、11月末からガラクタを処分し始め、
心の中の葛藤と戦いながら少しずつ作業を進め、やっと一通りの整理が終わり、
スペースクリアリングの儀式に臨んだのが昨年12月16日午前0時、
ちょうど私の45歳の誕生日でした。

この儀式を終え、部屋の空気が本当に変わりました。
これまで数々の護符、木炭、セラミックで部屋の風水を変え、結界を張ったり
していたのですが、この度のスペース・クリアリングが
最も根本から「空間の気」というものを変えてくれたようです。

そういう感覚の分かる友人を部屋に招いたら、あまりの変わりように心底驚いていました。


それから一ヶ月、時々部屋の掃除をしていますが、物が少なくなり、
物を収める場所がきちっと決まっていますので、掃除の手間がかかりません。

今現在絶対に必要なもの以外は、特に欲しいと思わなくなりました。
物に対する考え方も変わってきました。

物というものを通して、心のあり方を学びました。


昨日1月17日は、阪神淡路大震災からちょうど十年でした。
私の本籍地は兵庫県西宮市、出身校は神戸市東灘区にある甲南大学、
後輩が在校生だけで16名震災で命を落としました。

壊滅的な被害を受けた街並みは、再開発によって無機質なビル街へと生まれ変わり、
当時の面影はほとんど残っていません。
しかしその影では復興住宅でひっそりと息を引き取る老人の方たちが年間70人を
越えるという現実があります。

古いものを捨て、壊し、それを近代的で効率的なモノに変えたとしても、
そこに暮らす人たちの「生活」、「心」というものが配慮されていなければ、
それは血の通わないただ単なる「モノ」に過ぎないということです。

物との関わりを、我々はもっと学ぶべきです。

2005.01.18 Tuesday




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