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宗教を思う<3>

相対というのは絶対とは異なり、
白黒ハッキリと区別をすることができない世界、
すべてのところにいい面と悪い面、その両方を見る世界です。

宗教は、これまで金属という陽の力を大きく受け、
絶対性を持たすことによって存続しようとする力が働き、
絶対性は普遍的であるがゆえ、
多くの宗教は、それが開かれた時からこれまで、
ほとんど形を変えることなく伝えられてきています。

仏教のように、日本、中国、タイ、スリランカ、・・・
伝来された国に於いてその土地の文化と融合し、
特定の様式を持つに至ったものもありますが、
それらとて、一度形作られたものが形を変えていくことはほとんどありません。

この絶対性は強い求心力を持つという利点はありますが、
時の流れの変化に対応できず、
少しずつ欠点が大きく表れてきてしまうという面があります。

そしてそれが今、陽から陰、金属から水へと移りゆく世界の中で、
ひとつの臨界点を迎え、
宗教も大きく形を変えていくことが求められています。


本来絶対ではないものを絶対としてしまうことによって、
大きな矛盾が生じます。

以前「裏の論理」というページにも書いたように、
西洋、陽の価値観の代表であるキリスト教は、
本来は陰陽の序列で陰性優位のこの時空に於いて、
自らの持つ陽性を絶対としなければならないがため、
発生学的に明かな誤りである『男性原初説』を、
アダムとイブを通して語っています。

自分のよく知る天理教は、
『二つ一つが天の理』という教えが、根本教義のひとつとなっています。
これは天理教が生まれるはるか以前からある東洋の陰陽思想と同じであり、
これは間違いなく真理として伝えれるべきものだと思います。

けれどこの天理教の陰陽思想が通じるのは、
天理教の教理が描く絶対世界の中に於いてのみであり、
それ以外、外に世界にそれを適応することはしていません。

夫婦、男女、天地、天理教で説く“二つ一つの世界”を広げていけば、
天理王命(てんりおうのみこと)という唯一神を尊ぶ一神教と、
それと対をなす多神教の世界もまた
二つ一つとして認めていかなければならないはずです。

または天理教で説く世界観ではないそれ以外の世界観も、
己とそれ以外を、小宇宙、大宇宙と対をなすように見ていくように、
意味ある平等なものとして目を向けていく必要があるはずです。
けれど天理教に於いては天理教が絶対であり、
それ以外の世界との関わりを考え、そこから学ぶといったことはまったくありません。

この相対と絶対の価値観をチャンポンした世界観は、
実に矛盾しており、ハッキリ言って滑稽ですらあります。
太古の人々は、地球が球体であるとは思いもよらず、
大地を亀と象が支えていたと想像していたそうですが、
この矛盾した価値観は、そんな世界を彷彿させます。



プライベートな話ですが、
先日、天理教の熱心の信者さんたちに、この相対と絶対の話をさせてもらいました。
みなさん素直で理屈の分かる方なので、
その話にうなずき、もっといろんなことを聞いてみたいと言ってはくださるのですが、
しばらく時が経つと、自然と“天理教絶対”の世界に戻っていってしまわれます。

これは残念なことではありますが、
それだけ絶対性を強く心に持っているがゆえ、
これまで真摯に神とを対峙し、己を律して生きてくることができたのでしょう。


相対とは絶対的に善悪を決められない世界です。
いかに宗教の教義に矛盾があろうとも、
それをどう受け止め、どう活かしていくか、そこにこそ価値が生まれます。

キリスト教も天理教も、他の数々の宗教も、
これまで多くの人々の生きる指針となり、
多くの人を救ってきたことは間違いのないことであり、
これからも今の形の宗教の役割は、
すぐに消えてしまうことはありません。

ただそこから大きな争いが起こったり、
心の苦しみを受けることになった人たちも多くいて、
そうならないためにも、
自分の内面にしっかりとしたものを持ち、
宗教と相対的に関わっていくことが必要です。


自分の外のものを絶対と思った瞬間から過ちが始まり、
その絶対と思われたものにエネルギーが集まり、
ひとつの生命体としての暴走が始まります。
エキセントリックな表現ですが、これは事実です。

絶対化された組織、集団はひとつの生命体としてのエネルギーと意志を持ち、
自らの生命を維持しようと動き出します。
宗教も立派な教義ができ、形ある施設を作ってしまうと、
それを守り、発展させていこうという力が働くのです。

日本の仏教は形骸化され、葬式仏教と揶揄されることがよくあります。
お釈迦様は死者を弔うために立派な葬儀を上げ、
墓を作ることの必要性はまったく説いておられませんが、
いったんできてしまった教団を維持し、
宗教を職業とする僧侶(プロ宗教家)が生まれてくれば、
それを維持していくためのシステムができてくるのは当然であり、
それを崩さないよう、「宗教は脅しだ」と言われるぐらいの強い求心力が
発生するのも自然なことです。
これが組織の持つ生命力です。


どこの宗教でも、その宗教で示された祈りを日々長時間捧げます。
インドで訪ねる仏教寺院 日本山妙法寺の道場では、
朝夕約四時間 南無妙法蓮華経を唱え続けます。
天理教ではお勤めというのですが、
準備を含めてそれに近い時間を祈りのために捧げています。

その宗教を熱心に信仰していない者にとって、
このあまりにも長い祈りの時間がどういう意味を持つものなのか、
それを理解することはできません。

それらは当然教祖、開祖が、
「こういった形で祈りを捧げることが善である」
とおっしゃられたからなのでしょうが、
その日々延々と繰り返される文言が、誓言(マントラ)としての力を持ち、
不思議な霊力を唱える人に与えるというのなら、
それを証明することはできなくても、ある面納得はできます。

けれどその文言自体に意味、意義があるとするならば、
あまりにも度が過ぎていて、ナンセンスと言わざる得ません。

今の時代、ひとつの事柄を学ぶ方法はあまたにあります。
本を読んだりネットで調べたり、または志を同じくする人たちと勉強会をしたり、
そういった方法をまったく顧みることなく、
大昔からの祈りの方法を堅持しているのは、
素晴らしいことだとはどうしても感じられません。

今の祈りの形が悪いと言っているのではありません。
その祈りとはどういった意味合いを持つものなのか、
その祈りによって目指すべきものは何なのか、
それを時代の流れに合わせ、また時々の己の心に問いかけていくことが、
心を救済するための、真の宗教の姿だと感じます。

神棚、仏壇に奉られている存在、教祖、開祖の言葉、
それらを絶対視し、価値観をその外部のものに完全に依存させてしまうのは、
危険であり、空恐ろしいもののように感じます。

宗教組織という生命体からすると、
信者が祈りという宗教儀式を長時間行うことは大きなメリットがあります。
それだけ帰属意識が高まること、
宗教に費やす時間やエネルギーが大きくなればなるほど、
自分が費やしたその宗教に対する過去の蓄積を否定しにくくなるということ。
そして長時間拘束することによって、
その宗教以外のものに目を向ける時間がなくなってしまうということです。

どの宗教も朝の祈りはかなり早い時間から始まるので、
夜は早くから休まなければなりません。
そういうところに滞在していると、当然自由な時間も制約されてしまいます。
この物理的時間が制約されるということは、まるで
「自分の頭でいいと思うことをいろいろするよりも、
 この宗教で決められた祈りを捧げていればいいのだ」
と頭から自己否定をされているようで、心の奥にわずかながら寂しさを感じます。

これはあくまでも否定的側面をクローズアップしたものですが、
こういった感じ方、見方もあるということを知ってください。
これをいかに判断し、活かすかが己の知恵です。


どんなものにも善悪両面があるのですが、
何がいい悪いと即決することはできません。
また極端にいいもの、悪いものほどその一面にばかりに目が行き、
隠れているわずかな闇、光に目が届かなくなってしまいます。

ですから宗教のように、本来素晴らしいと評価されるものほど、
その闇の面に目を向けていかなければならないのです。
それがそのものと、本当の意味でのいいお付き合いをしていく大切なポイントであり、
相対的に関わるための必須条件です。

例えば自分は公衆トイレの掃除を定期的にしていますが、
それは自分にとっての心磨き、一種の宗教的行為だと考えています。
そのトイレ掃除は便器を徹底的に磨き上げることによって己の業とするのですが、
それとて絶対的に素晴らしいことではありません。

アジアの貧しい国に行けば、トイレは悲惨なほど汚れまくっているとこがよくあります。
また不衛生な環境で暮らし、食べ物は雑菌だらけというのも一般的ですが、
そういったところで暮らしている人たちの方が、
腸内細菌は豊かてあり、病気に対する抵抗力を強く持っています。

清潔は悪いことではありませんが、
それとて絶対的なものではなく、
行きすぎた清潔志向は、人間を心身両面から弱くしていくのです。


先に書いたように、ここで述べていることは真理ではありません。
ただ真理の概要をなぞっているだけであり、
真理とは、本来言葉というデジタル情報では伝えられないものです。

究極の宗教体験とされる三昧の境地、覚醒体験、サマディー、悟り、
こういったものは、言葉ではその体験の概要しか表すことはできず、
己の身で体験した者のみ、その真実を知り得るのです。

ですからどんな聖典と呼ばれるものにも真理はありません。
真理とは、それを道具として己の中に見いだすものです。

真にそのもの、その人を敬愛し、尊敬するならば、
あらかじめそのもの、その人のマイナスとなるもの、
また将来なり得る可能性のあるものを認め、
受け入れた上で関わっていくことです。

盲信することは、そのものの真の姿を見ていないことであり、
硬き棒のような思いは、いつか脆く崩れていってしまいます。


時は必ず移ろうものであり、
今の宗教が、これから短期間で大きくその形を変えていくであろうことは必定であり、
またそうでなければならないことです。

生命体としての人類の歴史は、
東西二つの文明を大きな極として、八百年ごとに覇権を交代し、
遺伝子DNAと同じ二重らせん構造で、1600年サイクルの渦を描いてきました。

そしてその渦は確実に進化の方向へと向かい、
人類の文明は少しずつ無駄な血を流さない平和で精神性の高いものへと向かい、
進化してきました。

今はその渦が大きく切り替わろうとしている時であり、
今のこの時代は、これからの人類の行く末を左右する極めて重要な時です。

今の時代は、文明法則史学の流れで見て、
八百年に一度の文明の大転換期、
1600年前と同じく、文明の覇権が西洋から東洋へと移りゆく時です。

また多くの人が感じているように、
現代文明が完全に爛熟してしまい、
人類誕生以来初ともいえる人類存亡の危機に瀕しているのも事実です。

この極めて大きな文明転換期を乗り越えていくためには、
一日も早く新たなる精神文明を築いていかなければなりません。
もしそれが上手くいったならば、
人類は、素晴らしい自然との共存、調和社会を、
これから何百年、何千年といったスパンで創り上げていくことができるでしょう。

けれどもしこれが上手くいかなかったとすると、
核戦争、自然災害、どういった手段になるかは分かりませんが、
人類はこの地球上に存在しえないのではないかと考えられます。
これは多くの人が感じておられることだと思います。

この新しい時代の精神文明を創り上げていくためには、
これからの時代の中心になる東洋にあり、
素晴らしい精神文明を持ち、
先進国として西洋文明の功罪両面を体験した日本が、
新たなる文明のリーダーとして人類全体を導いていく役割を持っています。

自分は国粋主義者ではありませんが、
日本の言語、地理、歴史、すべての面から見て、
これは間違いのないことだと信じています。

文明法則史学では、1600年サイクルの東西文明の大きな流れとともに、
その中に約三百年ほどの社会秩序(S.S)と呼ぶ国や地域が描く文明の波が、
各四個ほど存在することが確認されています。

そして今新たなる世界文明を築いていくのは、
日本のS.Sだと考えられ、
2016年時点では、それはまだ花開いておらず、
人間でいえば誕生前の胎児のような存在です。

歴史という生命体と人間の生命体の様相は、
近似するものであり、
人間に於いて胎教が出生後に大きな影響を与えるように、
今この時期の日本の文明、基底文化のあり方というものが、
今後の日本が築き上げていく文明、
世界全体の文明に大きな影響を与え、
ひいては人類存亡の鍵をも握ることになりかねないということが、
大きな歴史の流れから見て取れるのです。

これまで各国で起こった文明秩序、S.Sを見てみると、
生命が宿り始めたと考えられるp点から、
それが生まれて表に現れるa点までの間に、
きちんとした基底文明を築けなかったものは、
その後の文明の発展も不完全燃焼に終わってしまい、
逆に、そのそのa点までにきちんとその文明の基礎を築けていたものは、
その後大きく文明を花開かせているのです。

そして今の日本はそのp点からa点までの間にあたり、
今から四年後、東京オリンピックのある2020年頃が、
新たな文明が表に現れるa点であろうと考えられています。

つまりそのa点、2020年までに、
日本は新たなる基底文明を築かなければ、
それが後々世界すべてに大きな影響を与えると考えられるのです。


今は時代の大きな端境期にあたり、
旧時代の価値観の弊害が大きく表に表れると同時に、
まったく新しい画期的な技術や価値観も生まれようとしています。

これはすべての分野に於いてです。
医療、食料、エネルギー、教育、そして宗教、
歴史の大きなエネルギーの流れを受け止めないものはありません。

けれどいいものは、それが現れたなら、
すべてがすんなりと受け入れられるとは限りません。
どんなものにもお金が絡み、
旧時代の仕組みで利益を得ている集団は、
必ず新しいものの発現を阻止しようとします。

今の爛熟した文明が破壊しつつある自然の様相、
大きく表れてきている旧時代の弊害、
それと新たなものが生まれ、表に現れようとする流れは、
対比すると残念ながら、旧時代の弊害の方が大きいように感じざる得ません。

これは人類存亡に関わる大問題であり、
これを乗り越えていくためにも、
一人一人の人間が私利私欲を超え、
新たな未来の価値観に向けて目を向けていくことが必要です。

具体的には2020年までに日本の基底文化を創ること、
そのための精神的支柱として、
己の中に価値の主体を置き、
教え、与えるのではなく、自らが知恵として掴み取っていく、
そんな宗教のあり方が早急に求められています。


何度も同じようなことを繰り返し言いますが、
今の宗教の形が絶対的に悪いわけではありません。
宗教は今も多くの人を救っていることは事実ですが、
さなぎから蝶に形態を大きく変化させるが如く、
人類、人類の築き上げてきたものは、宗教も文明も、
そのあり方を大きく変えていくことを求められています。

変革の必要性は、すべてのものに求められてはいますが、
すべては同時に変化していくのではなく、
生物の進化と同様に、何かひとつの大きな変化が、
他のものを牽引していく大きなキッカケになるのだと考えます。

そして宗教と深い縁を持つ自分としては、
宗教がその全体の変革を導く役割を果たしてもらうことを強く願っているのです。

2016.5.29 Sunday  
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