我が魂の遍歴と新しい時代の理
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裏の論理

西洋思想の根幹であり一神教のキリスト教も、これから時代の大きな流れの中で、少しずつその勢いに翳りを見せてくるであろうことは必定です。
キリスト教の中で説く絶対というものが、絶対ではないということが少しずつ明らかになってくるでしょう。

キリスト教では、神が土くれに息を吹きかけ男性であるアダムを造り、そのアダムの肋骨から女性であるイブを造ったと説いています。
この男性、女性という順番は、東洋の陰陽とは逆であり、生物の発生原理を解明した自然科学の観点から見て明らかに誤りです。

女性と男性、どちらも陰と陽の理合いがあり、二つ一組で成り立つ、どちらも大切な役割を持った存在ですが、西洋思想の根幹であり一神教で男性優位のキリスト教は、「絶対」という概念を強く持つが故、自らの説く「陽の理合い」を絶対であり原初であると説く必要がありました。
ただこの宇宙は陰性優位であり、原初の理は陰にあるため、キリスト教の根本に誤りが生じてしまったのです。

これは誤りというよりは「方便」と解釈した方が適切かと思われます。
そうしなければ、強い求心力(陽性)を以て、西洋文明の中で多くの人の心を引き付けることができなかったからです。

子を宿す女性は命の象徴であり、理に勝る男性は論理の象徴です。
男性(陽)を女性(陰)の上位概念として扱わざるえないキリスト教では、命というものを人間とは別の存在(神)が論理(ロゴス)で以て造り出すと説く必要がありました。

「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった」 
                ~ 新約聖書 ヨハネによる福音書 第一章一節 ~


キリスト教は、命よりも論理(ロゴス)、言葉、愛というものを上位に置きます。
これは何よりも命を大切と考え、己の中に仏性を見いだし、己の内なる小宇宙は、外なる大宇宙と同じであると考える東洋とは対極的です。

陰と陽、東洋と西洋、論理を重んじ己の外に神を求めるキリスト教と、命を大切にし己の内に宇宙のすべてを見いだす東洋思想、どちらがいいか悪いか、どちらに価値があるかという問題ではありません。
どちらも無くてはならない不可欠な存在であり、片方だけでは人類の文明は成り立ちません。

ただ原初の理を持たない西洋思想のキリスト教は、絶対という概念を説かねばならなかったため、原初の理の真逆を根本とした「裏の論理」とならざるえなかったということです。

東洋では輪廻の思想があり、人間は死んでもまたいつか生まれ変わり、生と死は何度も繰り返すものだと考えられています。
これに対して対極の存在であるキリスト教は、輪廻というものを認めず、人間の生は一度きりのものだと説いています。

この宇宙にある森羅万象は、すべてが共生し合い、循環しています。
形あるものはいつか壊れ、人間も死して土となり、その土から植物が育ち、それを動物が食べ、少しずつ形を変えながら命というものを継承し、そのサイクルを繰り返しています。

人間の日々のサイクルもまた循環です。
夜は眠り夢の世界へ行き、昼は覚醒し現実世界を見つめ、そして夢で見た出来事は起きた直後は覚えているものの、少し時間が経つときれいに忘れてしまいます。
この一日周期の睡眠と覚醒のサイクルは、数百年周期といわれている輪廻のサイクルときわめて近似したフラクタル(自己相似形)です。

死してあの世に行き、またこの世で生を受けて生まれ変わる。
まだ幼い言葉をやっと喋れるようになった幼児は、かなりの確率で魂の世界を記憶しているという統計がありますが、大人で前世を記憶している人はほとんどいません。

人間が自然の一造物であったなら、他の自然と同じく、その生と死も循環し輪廻を繰り返すと考えた方がきわめて整合性が高く納得できます。

ただしキリスト教では、神は人間のみにコトバを与え、すべての自然の支配者として別格の扱いになっているという面から考えると、人間のみが特別に輪廻のサイクルから解き放たれた特殊な存在であると考えられないこともありません。

そうだとしても、インドや中国など世界各地で数多くの前世を記憶する人たちが発見され、それが調査によって論理的に正しいことが実証されているという事実と相反してしまいます。


キリスト教が裏の論理であり、これから時代の流れとともに衰退していく運命にあるから価値が無いと言っているのではありません。
何度も同じようなことを繰り返しますが、陰というものは陽という対極のものがあってはじめて成り立ち、どちらか一方だけがいい悪いの問題ではないのです。

キリスト教は長年に渡り、陰の対極である陽としての働きを十分に果たし、多くの人の心を救い、人を幸せにしてきたのは事実です。
また今は時代の転換期といってもまだ前半です。
たぶん2025年頃であろうと考えられる転換期の中央点までは陽の働きの方が強く、まだまだキリスト教には多くの人々の魂を救う役割があります。 「文明の衝突」の著者サミュエル・ハンチントンは「文明の対立は宗教の対立にほかならない」と述べています。
ほとんど無宗教である私たち日本人には少し分かりにくいことですが、文明、民族の根本には、その文明を代表する宗教があります。
        (山本七平によると、日本人は「日本教」の信者だそうです)

願うことはただひとつ、この超巨大な文明の大転換期、西洋的、キリスト教的文明から、いかにスムーズに東洋的、そして新しい水の時代の価値観へと移行できるかということです。

陰陽二元論の東洋は、陰と陽両方に価値を置き、「衰退の美学」というものを持っています。
それに対して善悪二元論の西洋は、善か悪か、正しいか間違っているか、自分たちの現在持っている価値観を絶対と捉えているだけに、その力が衰えた時の姿は惨たらしいものになる可能性があります。

この文明の移行期を、いかにスムーズに、いかに血を流さずに通り抜けることができるのか、これは私たち全人類に与えられた最大の課題だと考えられます。


衰退していく文明は、これまでの暗部が表面化してきます。
そしてそれを取り繕うための施策をいくら打っても、いい結果は生まれてきません。

2001年の9・11テロは、アメリカが侵略戦争を始めるキッカケが欲しいがために起こした自作自演のテロであることは、知る人ぞ知る事実です。
政府が発表した公式報告書には数多くの矛盾点があり、その疑惑を決定付ける様々な情報がインターネットや、日本やアメリカで発行された何十冊という本に記されています。

アメリカが強い力を持ち、アメリカ資本主義が最高の力を発揮していた頃には、このような暗部が表面化してくることはなかったでしょう。
60年代の半ば以降、ベトナム戦争勃発以来、アメリカの国力は文明転換期の波に乗り、弱体化の一途をたどっています。
強きよきアメリカ、世界の警察であるアメリカという姿は、もはや幻想となってしまったということに、私たち、そしてアメリカ国民自身が気付くべきです。

アメリカの暗部を明らかにしたいと考えるのは、アメリカを非難するためではありません。
アメリカそして西洋文明の唱える「絶対」というものがそうではないのだということを、一日も早く、一人でも多くの人が知ることが、西洋文明の衰退という退路をきれいに築く上でとても重要だと考えるからです。

衰退していくアメリカ、ヨーロッパ文明のきれいな引き際を作るという課題は、新しい東洋文明の中心となる私たちにも課せられています。

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