ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
 ヨガナンダ > スピリチュアル夜話 > ヒロシマより



ヨガナンダ



ヒロシマより

私は本籍が兵庫県で大阪生まれ、
父の転勤で札幌、川崎、奈良と移り住み。
学校を出て就職してからは松江、岡山に暮らし、
会社を辞めて広島に来たのが平成2年、
もう21年も前のことです。

元々広島にはまったく縁もゆかりもなかったのですが、
何の因縁で広島に引き寄せられ、
気が付けば、広島がこれまで最も長い期間住んだ土地となっています。

広島は世界で初めて民間人の上に原子爆弾が投下されたところであり、
「ヒロシマ」は世界における平和のシンボルであり、
一般の市民の間でも、平和を語るということが、
日常の生活の一部になっています。

この世界が大きく変わろうとしている時にヒロシマに住み、
平和のメッセージを発信できることに、
私は誇りと使命を感じます。


今、福島第一原発の放射能被害のことが、
日本人全員の心を大いに痛め、悩ませています。
目に見えない、かつすぐには症状として表れない放射能の害は、
底知れない恐怖となって私たちの心に重くのしかかっています。

今私たちに求められているのは、
無用な不安や恐怖を手放し、冷静に物事を判断することてす。

けれども冷静にとは言っても、何が正しいのか、
政府、東電、保安院の言葉を信じていいのか、
危機的状況だと語る専門家の意見に耳を傾けるべきなのか、
今の段階では判断することはできません。


放射能の害は本当に恐ろしいものですが、
その恐ろしい放射能の害を最も強烈に味わったのは、
66年前のここヒロシマとナガサキの人たちです。

被爆を体験した方たちの話は貴重です。
今だからこそヒロシマから発信できるメッセージがあるのではないかと考えます。

震災以降、平和という言葉の意味が大きく変わりました。
平和とは、戦争のない状態ではなく、
人類が生き延びられる状態であるという意味です。


「批難覚悟で」の中で、
被爆者である中村忠之さんの言葉をご紹介しました。

我々の浴びた放射線の量は、
今テレビで基準値がどうのといったレベルではない。
それでも今こうして仲間たちとともに元気に生きている。

当時は爆心地から2.5キロ以内に出入りした者しか
被爆者として認められなかった。
今の20キロ、30キロという避難基準はおかしいし、

水や食べ物も危険だ、危険だと騒ぎすぎだ。
私は原爆が落ちた後も伴(爆心地から8キロ)に疎開し、
そこで採れた野菜や魚をずっと食べ続けてきた。


私の感覚では、
これは被爆を体験された方たちの一般的な思いではないかと思われます。
なにせあの被爆直後のヒロシマは、地獄のようだったのですから ・・・ 。

今日は同じく被爆者である國近京子さんという方とお会いしました。
國近さんとはもう二十年来懇意にお付き合いさせていただいていますが、
広島とカンボジアとの交流の輪を結ぶ運動の中心となって活動し、
24時間精力的に活躍し続けるスーパーウーマンです。
  <国近京子さん>  <ひろしまカンボジア市民交流会>

國近京子さんとトロン・メアリーさん
    カンボジアの元大使トロン・メアリーさんと國近京子さん

國近さんが被爆されたのは、ようやっともの心がついたばかりの頃です。
市内中心部で被爆し、家族はばらばらになり、
翌日比治山というところでお姉さんと会うことができたのですが、
お姉さんはその時の記憶がまったくないそうです。

あまりにもおぞましい体験であるので、
記憶を封印してしまわれたのです。

私はもちろん被爆直後の広島がどんなものであるのかは、
まったく知るよしもないのですが、
多くの被爆者の方たちが、
戦後しばらくは被爆体験を語らなかったという事実からだけでも、
その体験の凄まじさを感じ取ることができます。


國近さんも、やはりこのたびの原発事故、放射能被害に対しては、
中村さんとまったく同じご意見でした。

「外国では九州産の野菜でも放射能に汚染されていると言って売れないらしい。
 日本でも放射能の風評被害が広がっているけれど、
 私たちは頭の真上でアメリカ軍によって原子爆弾を爆発させられ、
 全身で放射能を浴びたのよ。
 このたびの放射能でみんなが大騒ぎしていることには、
 被爆者の人たち全員が怒り狂ってるわよ」


とのことでした。
國近さんは、原発や放射能のことを考えると、
目が冴えて夜も寝れないそうです。

中村さんのご意見と同じく、
この國近さんの意見が絶対に正しいかどうかは分かりませんが、
全身に強烈な放射能を浴び、あの地獄の中を生き延びてきた人の意見として、
こういった言葉が出るのは当然のことだと思います。

私もヒロシマに住み、
数十年間草木も生えないと言われた焼け野原から、
ここまで見事に復興した街並みを見ると、
心の底で、放射能の恐怖にほんの少し疑問を持つこともあります。

ただし事実は分かりません。
それはやはり各自が判断するべきことです。


ひろしまカンボジア市民交流会が誕生し、
國近さんを中心にカンボジア支援の輪が広がったのは、
94年に広島でアジア大会が開催され、
それに参加する国々を広島の公民館単位で応援しようという
「一国一館運動」がはじまったのがキッカケです。

そこで白島公民館というところが、
カンボジアの選手たちを応援することになり、
それがアジア大会以降も続き、
4年前、カンボジアの首都プノンペンに立派なひろしまハウスが完成しました。

ひろしまハウス in カンボジア

この時の体験から國近さんは、
このたび被災された町も、
どこの町はどこの市や県が支援すると決めて支援すれば、
支援する方とされる方に目に見える形での交流が深まり、
支援にも力が入るのではと話されていました。

私もカンボジア支援の活動に加わっていた経験から、
その考え方には大賛成ですが、
政府の被災地支援は公平性というのが最前提ですので、
残念ながら、これは実現性が乏しいでしょう。

けれども今でも支援物資が必要なところに必要なものが行き渡らず、
家族全員で一日一個のおにぎりを
分け合いながら食べている避難所もあると聞きます。
硬直化した行政の対応は、なんとしても柔軟にする必要があります。


國近さんのお嬢さんは、
95年の阪神大震災の時、神戸市東灘区のアパートで被災し、
すぐに広島に戻ってこられました。

部屋の中はめちゃくちゃになり、
勤務先の会社のビルは倒れ、倒産したものの、
新しいきれいなアパートは外観を保ったため、
倒壊を免れたという白紙を貼られ、
そのために罹災証明をもらえなかったそうです。

そのために何度も神戸市役所に通い、
「現在罹災証明を申請中」ということにしてもらい、
それをもってお嬢さんは広島の県営住宅に被災者として入居することができました。

その時に國近さんは、
被災者の元に渡ることなく腐っていった山積みのお弁当を見たそうです。

今は公平性などと言っている場合ではなく、
とにかく援助できる物資を手当たり次第でもいいから渡すべきだ、
これが國近さんの意見です。


けれども人生万事塞翁が馬、
なにが幸いするか分かりません。

こんなプライベートなことを書いていいのかどうか分かりませんが、
ハッピーなことだからいいでしょう。

その國近さんのお嬢さんが広島に戻られ、無事就職が決まった日、
市内の大きなプールに行き、
そこで関東から国体の関係で来ていたある男性と出会いました。

そして翌日街を歩いていると、偶然またその男性とバッタリ会ったそうです。

そのまた翌日、
その夜は私やお母さんを含め何人かで一緒に食事をしたのですが、
お嬢さんだけ一人で先に店を出て帰られて、
たまたまバス乗り場まで行く道が工事中で迂回をしたら、
そこでまた彼と三度目の出会いをしたそうです。

そしてこれは何かあるということでお付き合いをされるようになり、
今はその男性と結婚し、二人の子どもさんたちに囲まれた
幸せな家庭を持っておられます。


人生どんなキッカケで何が起こるか分かりません。
すべては自らが引き寄せることで、
その意味は自分の心の奥だけが知っています。

明るい未来は明るい気持ちが引き寄せます。

いつも同じことばかり言っていますが、
どうか不安と恐怖を手放し、明るい未来を創造してください。

私たちは無限の力を持っています。

2011.4.4 Monday  
ひとつ前へ  ホームへ メニューへ 次へ
Link Free
Copyright 2010 Sakai Nobuo All right reserved.