ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
 ヨガナンダ > スピリチュアル夜話 > 研ぎ澄まされた絶対



ヨガナンダ



研ぎ澄まされた絶対

これから迎える巨大な時代の転換期は、
陽(西洋)から陰(東洋)への移行であり、
絶対という概念から相対という概念への移行でもあります。
  <相対>  <絶対>

またその際に変わりゆく価値観は、
陰陽まったく対極のものであるがゆえ、
これまで常識とされてきた価値観はいったんすべて崩壊さす必要があります。

これからの転換期は、スピリチュアルなものに関心がある人たちの間では
アセンション(次元上昇)と呼ばれ、
私たちは肉体を持たない霊体になるとまでいう人がいます。

それが真実かどうかは分かりませんが、
このたびの転換期がきわめて大きなものであることは、
文明法則史学で見た時代の流れ、
これまでの人類の発展、地球環境の変化、
様々な面から考えても間違いのないものであると思われます。

私たちが霊的存在になってしまうとなれば別ですが、
今まで通り肉体を維持できるならば、
いくら価値観が大きく変り、逆転したとしても、
その肉体的根本は変ることはないでしょう。

それは頭と手足という五体を持ち、食べ物を食べて命を保つという
きわめて根本の属性であり摂理です。

そのきわめて根本の属性であり摂理を仮に “絶対” と呼ぶならば、
私たちを取り巻く様々なモノ、コト、概念、そういったものの中で、
一体どこまでを絶対として捉えることができるのでしょうか。


私たち人類が波動(二重らせん)進化する時代の流れの中で、
変らぬ真理として持ち続けられるもの、
幸せの価値観として不変なもの、
それらが絶対であり、
それは私たちが普段考えている以上に根源的でシンプルなものです。

その絶対というもの、あるいは原点という言葉も同じ意味かもしれませんが、
それを見つめ、その意味をしっかりと理解し、体現することが、
これからの、これまでの陽の時代とは正反対の価値観を持つ陰の時代に
人類がスムーズに移行していくための必要条件です。
そしてこれはほぼ必要十分条件でもあると思われます。


私たちが幸せ、豊かさを得るための絶対条件だと思わされている
お金、モノ、知識、情報、利便性、快適性、
これはこれまで何度も書いてきたように、
まったく絶対的なものではありません。
  (だから不要だと言っているのではありません)

それは発展途上国で明るく暮らす人たちを見ればよく分かります。
私もインドに行き、そのことを心と体の底から痛感しました。

文明法則史学で時代の流れに命があるように、
すべてのものには生命が宿っています。
資本主義というひとつの意志を持った生命体も、
私たちを終わりのないレースに駆り立て、
その闘争、葛藤のエネルギーを糧とし自己増殖しているように見受けられます。

人類はこれまで際限ないまでに地球上の資源やエネルギーを消費し尽くしてきて、
その間一度として安定した平和や幸せというものを手に入れることなく、
このレースもいよいよ資源枯渇という最終的なゴールが
目の前に見えてくるようになりました。

この持続性のない一過性の消費社会の中に絶対を見つけることは不可能です。


では絶対とは何なのか、それを言葉で表すのは至難の業です。

私は一昨年インドに行き、ホームの子どもたちと接し、
私たち日本人が抱いてきた幸福感や豊かさの概念が、
幻想であることを強く感じ、
インドで自然とともに暮らす人たちの生き様から、
物質社会に洗脳された私たちに生き方のヒントを与えてもらえるように感じました。

そして今年再びインドに行き、
今は自然とともに明るく幸せに暮らすインドの人たちも、
大きな経済発展の流れの中に身を置き、
このまま行くと確実に数十年前の戦後日本が辿ってきた経済発展、
それに伴う精神文化の荒廃が襲ってくることを予感し、
正直とても沈鬱な気持ちになりました。

それはインドと日本だけの問題ではなく、
人類全体の課題として、世界中の社会システムが、
持続可能な形態を持っていないという事の気付きでもあります。

今この瞬間、私たちが自然に即した理想的な生き方ができるということと、
それが発展していく中で、その理想を保っていられというのは、
まったく別次元の問題です。

これは単純に「エコな暮らし」、「地球に優しく」などといったもので
解決できるものではありません。
  (現在その解決案を模索中です)


一昨年、インドの子どもたちの笑顔によって、
自分の心の中の大きな囚われを捨て去ることができ、
自分の原点を見つめられたように感じました。

今年気がついたのは、その原点をもっと深く掘り下げ、
より研ぎ澄まされた絶対というものを追い求めていかないと、
この時代の転換期を乗り越え、
持続可能な社会を築くことは不可能だという事実です。
これは当然私一人の課題ではなく人類全体の課題です。


より研ぎ澄まされた絶対というものを求めるのは、
きわめて困難なものなのでしょう、そしてそれを実践していくのはさらに・・・。

しかしこれを求め実践していかなければ、
アセンションなどというものはあり得ないように思えます。

外のどこかから光のようなものが降り注ぎ、一瞬にして人類の意識が変る、
そんな依存的な未来は私には想像できません。
人間にとって最も尊い自由意志、
その意志と行動で最後の階段の一歩を登ることが必要でしょう。

スピリチュアルマニアの方たちがアセンションという言葉で唱える中に、
どれだけ深い意味が込められているのか疑問に感じることがあります。

「○○をするとお金がもうかる」
「○月○日には太陽から強力なエネルギーが流れ込むので、
 その時に瞑想すれば魂がレベルアップされる」

こういった情報がスピリチュアル系のネットにはあふれているのですが、
これらの中には時代の転換期に際して自己を見つめ、
新たな価値観を模索しようというのとはまったく対極の、
これまでの自我欲求をいかに新たな手法で
今後も継続して充足させるかというエゴが強く感じられます。

これらの情報や手法が悪い、価値がないと言っているのではありません。
これもいつも言うように、その捉え方というのが問題なのです。

アセンションとは次元上昇、
だとしたら、これまでの自分たちのいた次元の価値観とはどの様なものだったのか、
まずはそれをしっかりと見つめることが第一歩です。

そして本来のスピリチュアルとは、
モノやコトなどの自分の外部ではなく、
己の内なるものに最高の輝きを見つけるもののはずです。

お金や外からのエネルギーといったものに意識を向けさせること自体が、
本筋から外れているように感じられます。

けれどもこれも程度の問題です。
外からの刺激なくしては人はなかなか変われません。
それもひとつの過程であり、最終的には自己の判断です。


話がそれてしまいましたが、
絶対というものをもっと深く研ぎ澄まさなければならないと感じるようになって、
なかなか文章を書くことができなくなりました。

今こうしてキーボードに向かっていても、
「もっと本質的に、もっと根源的に・・・」
そんな自分を追い立てるような言葉が聞こえてきそうで、
以前のように気軽に思ったことを書けなくなっています。

これは現在の自分が求めていることなのでしょう、
インドでそのことを感じ、
日本に帰ってきてからも手にする本は、
自らの考えを再び根本に戻って考え直させるようなものばかりです。


深い原点(絶対)を見つめること、
そこから一歩ずつ自らの手で価値観を構築していくことは大変な作業です。

けれどいくら大変でも、それをやらなければ、
大きな安定した価値体系を築くことができません。
今はそれが求められている時であり、
また今だからこそ、普遍性を持った新しい大きな価値体系を築けるのです。

普遍性、安定性、いつの時代でも誰しもが求めていることです。
それゆえ人々は自らの外に絶対的な価値を持つ存在を創造し、
神や宗教というものを創り上げていったのでしょう。

絶対的価値観を人に与えてもらうほど楽なことはありません。
それが人々に幸せを与えることになるのなら悪いことではありません。
ただその価値観の検証というものを常に自ら行っていかないと、
カルトということになってしまいます。
それが殺戮、迫害、身分差別、奴隷制度、
それらを肯定してきた宗教の歴史に他なりません。


人の人生は、幼稚園から小学校、中学校、そして社会人、・・・
人生の階段をひとつずつ登るたびに新たな価値観と出合い、
新しいものを身に付けていきます。

今これから人類が登ろうとしている階段は、
大きな価値観の転換期のその中間点に向かおうとしている時であり、
入学、進級という以前に、まずこれまでの学校の卒業のための準備として、
過去を振り返り、身に付けてきたものをひとつずつ脱ぎ捨て、
その芯にある輝ける自己を見つめることが求められています。

輝ける自己の発見、それがアセンションの本質です。

2010.6.23 Wednesday  
ひとつ前へ  ホームへ メニューへ 次へ
Link Free
Copyright 2010 Sakai Nobuo All right reserved.